今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「大丈夫。佐藤は天気男とでも言いますか。出かけまして、雨にあったことがございません」
--佐藤千代
俗に「雨男」「晴れ男(天気男)」などという言い方がある。詩人で作家の佐藤春夫は、千代夫人との結婚以降は、自他ともに認める典型的な「晴れ男」だった。どんなに激しい雨が降っていても、春夫が出かけると空が明るくなってきて、雨はかき消すようにやんでしまったという。
千代夫人もそれがよくわかっていて、春夫と一緒に旅に出かける同行者が雨模様の空を心配していると、掲出のようなことばで、きっぱりと言い切るのだった。そこには、夫婦の間に通う信頼の篤さもにじみ出ているように感じる。
そもそも、尋常な結ばれ方をした夫婦ではなかった。
昭和5年(1930)8月17日、新聞社や文壇関係者のもとに、彼らをめぐる一通の驚くべき書状が届いた。
《陳者(のぶれば)我等三人此度(このたび)合議を以て千代は潤一郎と離縁致し春夫と結婚致す事と相成(あいなり)潤一郎娘鮎子は母と同居致す可(べ)く素より双方交際の儀は従前の通に就き右御諒承の上一層の御厚誼を賜度(たまわりたく)(略)御通知申上候》
書状の差出人は、谷崎潤一郎・千代夫妻と佐藤春夫。三者の合意によって、離婚と結婚がなされることになった、との挨拶状だ。つまりは、谷崎潤一郎の妻であった千代が、このときから佐藤春夫の妻となった。世に一大センセーションを巻き起こした「細君譲渡事件」であった。
ことの発端はこれより10年前。谷崎が千代をないがしろにしているのを見かねた春夫の同情心が、愛情へと変わったことに始まる。この時すでに一度は「譲渡」の約束が交わされるが、谷崎の気が変わって破談。春夫と谷崎は絶交に至った。
それからまもない大正10年(1921)7月に刊行されたのが佐藤春夫の第一詩集『殉情詩集』。続いて10月には、《あはれ/秋風よ/心あらば伝えへてよ》と歌い出し《さんま、さんま、/さんま苦いか塩つぱいか。/そが上に熱き涙をしたたらせて/さんまを食ふはいづこの里のならひぞや》と綴っていく名詩『秋刀魚の歌』も発表された。
いずれも、遠く離れた愛する人への哀切な思いに満ちる。同時にこれは、たとえ反社会的な「情痴の徒」と蔑まれても、文人として立っていくのだという春夫の覚悟をも示していた。
秋刀魚に注いだ涙がはれてからは、自他ともに認めるお天気男。千代夫人の信頼感がそれを揺るぎないものとして雲を払う。
あるとき、童話作家の坪田譲治の全集の出版記念会が東京・目白の椿山荘で開かれた。このときも、春夫はテーブルスピーチで、
「昨日から雨模様で、今朝も曇っておりました。そこで、今日は、天気を持ってきて坪田君に進呈し、私の祝意を表することに致しました」
と挨拶。その途端、ことば通り、会場の窓から陽がさし込み、周囲から思わず拍手がわきあがった。そんな逸話も残されている。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。