今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「母の名は千枝といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐かしいものの一つに数えている」
--夏目漱石
夏目漱石の幼少期は家庭的に恵まれなかった印象がある。
漱石は生後まもなく古道具屋へ里子に出された。赤ん坊の漱石は笊に入れられ、その古道具屋のガラクタと一緒に、毎夜、四谷の大通りの夜店にさらされていた。姉のひとりがそれを見かけて可哀相に思い懐へ入れて連れ帰ったが、まもなく近在の名主である塩原夫婦のもとに養子にもらわれていった。
里子や養子ということ自体を、ことさら不仕合わせのように強調することは当たらないだろう。当時はそうしたことは少なからずあった。高橋是清も同じような幼少体験の持ち主だし、吉田茂も生後すぐに実父の親友の家へ養子に出された。与謝野寛・晶子夫妻は五女を他家へ養子に出している。
幼い漱石の心が傷つくのは、その後に引き続く揉め事があったためだろう。養父母の間に離婚騒動があり、漱石はまた夏目家に戻された。体は戻されながら、なお、戸籍の上ではすぐに塩原姓からの復籍がならず、養育費の問題などもからみ、ごたごたがつづいた。
こうしたことがつづく中で、自分の居場所が定まらぬような、不安定な心持ちが、漱石の中にきざしていったのではないだろうか。
その一方で、漱石は母の千枝に対しては、終生、懐かしい感情を抱きつづけていた。だから、晩年の随筆『硝子戸の中』にも、掲出のようなことばを記した。漱石はさらにこう綴る。
「だから私にはそれがただの私の母だけの名前で、決して外の女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない」
漱石の母・千枝は明治14年(1881)、漱石が14歳の折に病没している。千枝は漱石を産んだとき40歳を超えており、漱石の記憶の中の母もどこか「お婆さん」のように見えたという。
思い浮かぶ母の姿はいつも夏の服装(なり)で、紺無地の絽の帷子を着て、幅の狭い黒繻子の帯を締めている。鉄縁の大きな眼鏡をかけて裁縫仕事をしながら、眼鏡をかけたまま顎を襟元へ引きつけるようにしながら、漱石のことをじっと見つめることが多かった。それが老眼のためであることを漱石が知ったのは、ずっと後年のことだった。
『硝子戸の中』には、こんな一節も読める。
「宅中(うちじゅう)で一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中には、いつでも籠(こも)っている。愛憎を別にして考えてみても、母はたしかに品位のある床(ゆか)しい婦人に違いなかった」
「母の日」から1週間が過ぎた今日、どこか寂しい幼少年期を過ごした漱石に、この母がいてくれたことを、改めて感謝したいような気持ちになる。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。