はじめに− 織田信勝とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する織田信勝(おだ・のぶかつ/織田信行、演:中沢元紀)は、戦国の覇者・織田信長(演:小栗旬)の実弟として知られる人物です。兄・信長との確執により若くして命を落としたその生涯は、織田家内部の権力争いの象徴ともいえます。
本記事では、信勝の出自から兄との対立、非業の死に至るまで、史実に基づいて丁寧にひも解いていきます。
『豊臣兄弟!』では、信長とかつては仲のよかった弟として描かれます。

織田信勝が生きた時代
信勝が生きたのは、戦国時代末期の混沌とした時代です。群雄割拠の世で、主君に背いても実力でのし上がる下剋上がまかり通っていました。
尾張国(現在の愛知県西部)でも、織田家内の主導権争いが絶えず、信長の父・信秀の死後は、その後継をめぐって内紛が激化。信勝の運命もまた、この時代背景と無縁ではいられませんでした。
織田信勝の生涯と主な出来事
織田信勝の生年は不詳です。弘治3年(1557)もしくは永禄元年(1558)に没したといわれています。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
信長の弟として生まれる
織田信勝(初名:信勝、のちに信行)は、織田信秀の子で、織田信長の実弟にあたります。通称は勘十郎です。
信秀が築城した末森城(すえもりじょう、現在の愛知県名古屋市千種区城山町)の城主として重んじられ、尾張国内では一定の影響力を持っていました。

兄・信長との対立
信長が家督を継いだ後も、家中では「うつけ者」と呼ばれるその奇行に反発する勢力が多く、信勝を擁立する動きが強まりました。弘治2年(1556)、家老の林秀貞(はやし・ひでさだ)や柴田勝家(しばた・かついえ)らが信勝を担いで挙兵し、信長に反旗を翻します。
しかし、この戦いで信勝は大敗。命乞いをして一旦は赦されます。この一連の兄弟対決は、尾張織田家の主導権争いの中でも象徴的な事件として語り継がれています。

清洲城での最期
赦免からわずか1年後の弘治3年(1557)もしくは永禄元年(1558)、信長は信勝を清洲城に呼び寄せた上で暗殺したとされています。これは、信勝が再び謀反を企てているとの疑いによるものです。
信勝の陰謀を密告したのは、かつて信勝の宿老だった柴田勝家だといわれています。
享年は明らかではありませんが、若くして非業の死を遂げた信勝の人生は、兄・信長の圧倒的な存在感の陰で語られることが多いものの、戦国期の権力争いのリアルを映し出しています。

信勝の遺族たちのその後
信勝の長男・信澄は元服後「津田信澄」と名乗り、明智光秀の娘を妻に迎えるなど織田家中でも重要な地位にありました。しかし本能寺の変の後、光秀との姻戚関係を理由に織田信長の三男・信孝により殺されました。
また、信勝に仕えていた侍女・勝子も逸話の残る人物です。婚約者を殺されたことへの復讐で信長の家臣を刺殺。その後、禁固されていましたが救出され、徳川家康の家臣・大須賀康高に匿われました。
しかし、自らが織田家と徳川家の争いにもなりかねないと憂い、自らも命を絶つという壮絶な最期を遂げたと伝えられています。
まとめ
織田信勝は、信長の弟という立場から家中の一部に推されるも、兄に敗れ、悲劇的な最期を迎えた武将です。その死は、織田家内部の抗争の激しさを物語ると同時に、戦国時代の非情さを象徴するエピソードでもあります。
忘れられがちなこの弟の存在こそ、信長がいかにして織田家の頂点を確固たるものにしていったのかを知る上で、欠かせない視点といえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『日本歴史地名大系』(小学館)











