いま、万年筆の色インクに熱中する人たちがいます。多くの色インク瓶を集め、手帳や手紙にと何色ものインクを使い分け、嬉々としてその魅力を語って止みません。こうした様子を自ら“インク沼に沈む”といい、じつに楽しそうです。
このインク熱は2、3年前から広がり、いまでは地域名を冠したご当地インクが評判になり、メーカーも微妙な色合いのインクを次々と開発。インク熱気はさらに高まってきました。そして、世界で唯ひとつのオリジナルインクを調合してくれるセーラー万年筆の「インク工房」が大人気を博しています。
■化学者が振るカクテル・シェーカーから生まれる、無限のインク色
オープンと同時に、ほぼ整理券がさばけてしまうという「インク工房」。この工房は店をもたず、全国のデパートや文具店でのイベントとしてアトリエを開いています。
カリスマ的存在のインクブレンダー、石丸治さんが、マンツーマンで色の希望を聞き、目の前で原色のインクを調合。試し書きののち、カクテル・シェーカーを鮮やかに振ると、不思議にも望んだ色が生まれ出てくるのです。ここまで長くても15分。誕生したばかりの “自分だけの色”がインク瓶に注がれるとき、なんともいえない興奮と高揚感に満たされます。
穏やかな笑みを浮かべて説明してくれる石丸さんに伺いました。
——どうすれば狙った色がすぐに出せるのでしょうか。
石丸「まず、共通言語を見つけることです。たとえば、『もう少し暗く』といわれたら、その『少し』がどの程度なのか、話しながら探るわけです。『晴れた日の空の色』や『少し陰った新緑の色』といった注文でも、その言葉のイメージする色が人によって違います。ですから共通するイメージを持てるように、質問を重ねながらインクを調合していきます」
——これまでの常識では「インクを混ぜてはいけない」といわれてきました。色インクを出しているメーカーでも、混ぜないように注意をしています(染料インクと顔料インクの違いは後述)。
石丸「セーラー万年筆が以前販売していた色インク『ジェントルインク』(8色、50ml、1000円+税)は、もともと混ぜてもいいように作ってあったんです。ですから色インクがペン先に残ったままでも、洗浄しないで、別な色インクを使えました。色が重なって、思ってもみないインク色が出ますよ。色インクを混ぜて遊ぼう、というアナウンスの意味もあって、2005年にインク工房を始めました」
——インクブレンダーという言葉から独立独歩の職人さんをイメージしますが、勤続40年の会社員なのですね。
石丸「そうです(笑)。インク開発の研究職として1976年に入社しました。大学では染料化学を勉強し、入社後は主にカラーバリエーションの研究とその性能を確認する仕事をしています。化学者としての初仕事は、1週間でインク108色を作る指令でした。
当時、昼間はペン先を拵(こしら)える現場仕事をし、その後に研究室へ入って深夜まで。108色を作るということは、少なくても1000色は試さなければなりません。おまけに勤務時間外の1週間で作り上げるには、ハイスピードでこなさなければいけない。無我夢中でしたが、深夜の研究室を一人占めできて(笑)、いやぁ、じつに楽しかった」
——そのときの色インク調合とスピード感が、いまのインク工房で生きているわけですね。
石丸「まさしく。あのときにやり遂げたことで、自信もつきました。もともと私は虚弱な子どもで、野球など戸外の遊びより、花を絞って色水を作ったり混ぜたりして遊ぶことが好きでした。冬は花の代わりに、色付き折り紙を水に浸して色水を作って。朝顔の青い花の絞り汁に、酢を加えると赤くなりますね。そんなことをして友達や大人まで驚かすことができると、とても嬉しくて」
——インクブレンダーはまさに天職ですね。
これまでの11年間、インク工房で作った色は1万9000色以上。なかでも印象に残ったエピソードがあるといいます。
イベントで全国を回り始めた頃、受験勉強中と話すひとりの高校生が前に座りました。注文は、鉛筆芯の色。考えられる色インクを混ぜても納得してもらえず、次に並ぶお客様がひとり、ふたりと増えていき、とうとう10人近く並んだときのことでした。それまでお客様のイライラする雰囲気を感じていた石丸さんでしたが、その高校生に対して「妥協するな」「大丈夫か」「頑張れ」と応援する声が届き始めたのです。
そして、混ぜた色が9色に及んだ2時間後、高校生が大きく頷きました。石丸さんは思わず、ガッツポーズ。居並ぶ人たちは両手を挙げてバンザイ。その場がまるで祝祭空間に変わったようだったといいます。
この話には後日談があり、翌年、東京のイベント会場で、片隅に笑顔いっぱいの女性が立っていました。よく見ると、あの時の高校生。第一志望の大学に入学し、色インクの注文に来たのでした。「今度はすぐに終わりますね」と微笑みながら。
自分が決め、自分の思い入れがあるオリジナルインク。大切な人への手紙、誕生日プレゼントのカード、サンキューカード、俳句や川柳をひねるときの短冊になどなど、オリジナルインクを享受すれば万年筆の楽しみがいっそう増すに違いありません。
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