海野和男(昆虫写真家・78歳)
─昆虫の魅力や自然との共生の大切さを、世界を股にかけ伝え続ける─
「老いの気配を嘆いても何も始まらない。じっくりと観察を深めようと思います」

──草刈り作業の最中におじゃまします。
「お気になさらず。このヨモギの草むらには、ヒメシジミという小さな蝶が棲んでいましてね。ヨモギが幼虫の食草で、ちょうど先週あたりに地面の下に潜って蛹になったところなんです。ヨモギは生命力が強いので、放っておくとすぐ繁茂して庭を圧倒する。草刈りは欠かせないのですが、時期を間違えるとヒメシジミが生きられなくなります。草刈りができるのは蛹が土の中にいる今だけなのです」
──蝶に優しい庭なのですね。
「生えている草木は、基本的にはここ長野県小諸地域に分布する野生植物です。ヨモギだけでなく、さまざまな種類の蝶が利用する食草を配置しています。いわゆるバタフライガーデンですが、蝶だけを愛でているわけではありません。蝶を通じて生態系を見る。つまり自然との共生を模索する空間なのです。
草を刈るときは虎刈りにします。あえて雑に刈って草を残せば、ほかの生き物も身を寄せられます。蝶が花の蜜を吸いに訪れ、人が見ても楽しい園芸植物も植えています。ハーブや、ネギ、ニンジンなど野菜の花にも、蝶をはじめ虫がよく来ます。庭や畑を持っている人にはぜひおすすめしたい。バタフライガーデンは海外では人気の自然趣味です」

──撮影もここで行なっているのですか。
「海外に出るとき以外、ほとんどをここで過ごしていますね。小諸市周辺では115種類の蝶が確認されていますが、うちの敷地内だけで90種類います。この庭を造ってから、よそまで撮影に行く必要がなくなりました」
──アトリエを構えたのはいつでしょう。
「バブル景気の頃です。自宅以外で仕事に没頭できる場が欲しかったのだけど、都会では無理。小諸には子どもの頃に夏の家族旅行で来たことがありまして。虫採りを楽しんだ懐かしい場所で、気に入っていました。
高緯度地域は別として、標高500mから1000m地帯は、世界的に生物多様性の高い場所なんですよ。夏でも朝夕は涼しい。昆虫がたくさんいて過ごしやすいというのが、ここ小諸を拠点に選んだ理由です」
──どんな少年時代を過ごしましたか。
「東京・杉並生まれの新宿育ちで、父親は公務員、母親は家庭塾を開いていました。僕は3人兄弟の末っ子でした。集団行動が苦手でしてね。周りに子どもがたくさんいると怖くてしかたがない。そのため幼稚園には通えませんでした。小学校もよくずる休みしました。
住んでいたアパートの3階から、下の花壇に飛んでくる蝶をひとりで眺めているのが数少ない楽しみでした。前は桜並木で、夏になると青々とした葉の上が光ります。太陽の光を受けて虹色に輝くタマムシでした」

──昔は東京にも昆虫が多くいたのですね。
「今だっていますよ。原っぱを利用する昆虫こそ減りましたが、緑地がたくさんあるので樹木や日陰を好む昆虫は多いんです。北の丸公園と皇居周辺、明治神宮、新宿御苑。あのあたりは、むしろ僕が子どもの頃より多いかもしれない。靖国通りではタマムシが落ちているのを時々見ます。昔よくいたアゲハチョウはキアゲハですが、今は減っています。食草の問題ではなく、空間の明るさですね。今はビルが増え街が昔よりも暗くなっているので、東京ではそういった場所を好むアゲハチョウやクロアゲハが多くなっているのです」
──子どもの頃の夢はなんでしたか。
「昆虫学者でした。中学のときに通っていた歯医者さんがゾウムシの研究者で、虫好きが縁で何かと僕に目をかけてくれたんです。ある日“海野くん、今日うちに東京農工大の日高敏隆先生が来るから君も来ないか”と誘われましてね。日高先生は、もともとは僕のような昆虫採集少年です。昆虫を研究材料に日本の動物行動学の基盤を確立した方です。その豊富な知識と人柄に憧れました。僕はどうしても日高先生の下で昆虫の研究をしたくて、農工大の受験を目指しました」
「昆虫写真で飯を食うと宣言したが食えず。転機はデジタルカメラ」
──カメラとの出会いはその頃ですか。
「カメラには子どもの頃から親しんでいました。虫も少しは撮っていましたが、カメラとは人や風景を撮るものだと思い込んでいたので、昆虫写真家のような道を想像したこともありません。転機は大学の卒業が迫った1969年。スジグロシロチョウの雌の交尾拒否行動の撮影に成功したのです。
雄は雌を見つけると近づきますが、すでに交尾を済ませている雌は、羽を広げながらお腹を上げて雄を拒絶します。その行動自体は知られていたのですが、写真では記録されていませんでした。運良く瞬間をとらえた写真を日高先生に見てもらうと、当時連載していたアサヒグラフのページに掲載してくれました。その謝礼も僕にくれたのです。忘れもしません。税引きで3600円でした。
大学紛争の時代で、研究者になる道にだんだん魅力を感じなくなっていたときでした。好きな昆虫の写真を撮ってお金が貰えるなんて、こんな素晴らしい世界はない。すっかり舞い上がって、俺は昆虫写真で飯を食っていくぞと周りに宣言したのです」

──写真の道はどうでしたか。
「昆虫写真家と称してみたものの、なかなか飯が食えません。アルバイトもしました。機材の工夫も重ねましたが、なかなか納得がいかない。ある程度の評価はいただけるまでにはなりましたが、自分の写真が確立できたと感じたのは、デジタルカメラの登場からです。
ある写真雑誌から、出たばかりのデジタルカメラを試してほしいという依頼があったのは1998年でした。多くのプロカメラマンは、当時のデジタルカメラの性能に否定的でした。でも僕は大きな可能性を感じたのです。テストしたカメラは撮影素子が小さくピントの深いものでした。人物や風景を撮るには力不足でしたが、飛んでいる小さな昆虫のような被写体を撮ると、そのピントの深さが有利に働き、よりシャープな昆虫写真が撮れることがわかったのです」
──その後の進歩も目覚ましかったですね。
「そう。画質が格段によくなりました。電池も長持ちするようになりました。ですから、2000年以降はフィルムを持って海外に行ったことがありません。当初は出版の仕事はフィルムで、自分の作品撮りはデジタルでというふうに使い分けていましたが、ある時期からデジタルに一本化しました」
──海外の昆虫も紹介してこられました。
「コロナ騒ぎの前までは毎年海外に出かけていました。これまで訪れた国は50以上になると思います。大陸は南極以外すべて行きました。ただ、コロナで僕の人生計画はずいぶん変わってしまいましてね。ステイホームが叫ばれていたある日、東京の自宅で不意に尻もちをつき、脊椎を損傷してしまったのです。それからはどうも体の無理が利きません。
動体視力もコロナ後の5年間でだいぶ落ちました。今そこにカワトンボがいますね。止まっている間は見えるんですよ。ところが、飛び立つとどこへ行ったかわからない。以前ならレンズでぴたりと追えたんですがね。来週から中国の雲南へ行きますが、いつまで海外で撮影ができるかが今の心配事です」
──体力や視力の衰えも、今はデジタルカメラがある程度カバーしてくれるのでは。
「たしかにデジタルカメラの恩恵は大きいです。老いの寂しさを感じつつも、今もこうして写真を撮れるのは、デジタルカメラと周辺機材が格段に便利になったからです。
デジタルカメラは自動的に撮影記録が残ります。この機能にもだいぶ助けられています。絞りやシャッタースピードはもちろん、1枚ずつ撮影日時がわかります。カメラによってはGPSが内蔵され、緯度経度も記録できる。
フィルム時代は、現像から上がってきたカラーポジ一枚一枚のマウント(台)に、ペンで手書きする必要がありました。この作業にとてつもない手間を取られたのです。撮影の日付や場所まできちんと書いておかないと、たとえば学術的なデータとして使えません」
「まだまだ知らない虫がたくさん。哲学を貫きながら魅力を伝えたい」
──思いがけない利点もあったのですね。
「自動的に記録されるこれらの情報を、僕は自分のフィールドノートとしても活用しています。たとえば同じ日でも、去年と今年とでは昆虫の出現や開花のタイミングが違うものです。同じ場所で10年、20年と撮り続けていくと、異変や傾向にも気づきやすくなります。保存した写真の整理や検索のしやすさもフィルム写真時代の比ではありません」
──写真をウェブで毎日配信しています。
「『小諸日記』というタイトルで25年続けています。1999年から、1日1枚は撮った写真を投稿することを自分に課してきました。これもフィールドノート代わりになっています。おかげで小諸地域の自然の傾向を正確に掴めるようになりました。この蝶は減ってきているなとか、今年は羽化が早いとか遅いとか。今ならあそこへ行けばこの蝶が撮れるだろうと見当をつけることもできます。
『小諸日記』は、最も多かった時期には年間800万の閲覧数がありました。残念なことに先日その運営サイトが終了してしまいました。今は新しい発表の場を構築中で、データを移行しているところです。暫定措置としてフェイスブックを発信の場にしています」
──写真家としての今後は。
「老いの気配は寂しいものですが、嘆いてみても何も始まらない。これからはもっとバタフライガーデンに向き合おうと思っています。僕は蝶ならわかりますが、同じ花に来る虫でも蜂や虻の識別は苦手でしてね。昆虫写真家といっても、まだまだ知らない虫がたくさんいるんですよ。全世界には存在が明らかな昆虫が110万種類くらいいるそうですが、未発見種を含めると1000万種を超えるともいわれています。とても覚えきれません。
大好きな蝶でも、習性や行動のすべてをカメラで追えたわけではありません。今後はバタフライガーデンに置いた椅子に座りながら、じっくりと観察を深めようと思います」

──ゆっくり静かに究めていきたいと。
「といっても枯れたくはない。じつはコロナ禍を機に動画配信も始めまして。ムービーで撮ったデータもたくさんあるのですが、生かす機会がありませんでした。ユーチューブという発信方法があることに気づいてから、暇さえあれば動画の編集に没頭しています」
──今後はユーチューバーですか。
「音楽を入れたり、ナレーションを吹き込んだり、速度を変えて見せたりする工夫は、写真にはない可能性です。デジタルカメラは便利ですが、僕の中では感動が薄れてきているというのも正直なところでして。簡単によく撮れるようになったがゆえに、以前ほどはクリエイティブな喜びが湧かないのです。
動画配信は想像以上に奥の深いものでした。とはいえ、ユーチューバーとしてはまだまだ無名です。動画配信で成功する秘訣は、面白おかしい解説だそうです。理解はできますが、やはり僕は僕なりの哲学を貫きながら、昆虫の魅力を伝えたいと思っています」

海野和男(うんの・かずお)
1947年、東京生まれ。幼少期から虫遊びに魅せられ、東京農工大学日高敏隆(ひだかとしたか)研究室で昆虫行動学を学ぶ。在学中にスジグロシロチョウの交尾拒否行動を初めて撮影し注目を集める。以後写真家として蝶を中心に国内外の自然を精力的に撮る。この四半世紀は長野県小諸市のアトリエを拠点に地域の身近な自然を撮影。ウェブ配信『小諸日記』は年間800万アクセスになることも。著書は共著を含め200冊以上。
取材・文/鹿熊 勤 撮影/柳沢牧嘉











