伊勢(870年代〜938年頃)は、平安時代を代表する女流歌人です。伊勢守藤原継蔭(つぐかげ、もしくは、つぎかげ)の娘として生まれ、宇多天皇の中宮藤原温子(おんし)に仕える女官となりました。美貌と才気を兼ね備えた伊勢は、温子の弟・藤原仲平との恋に破れた後、宇多天皇の寵愛を受けて、御息所となり皇子をもうけます。また、敦慶親王(あつよししんのう)との間には、後に歌人となる中務(なかつかさ)を産みました。
和歌の才能に特に優れ、三十六歌仙の一人に選ばれ、『古今和歌集』や『後撰和歌集』に多くの歌が収められています。その歌風は、紀貫之と並び称されるほどで、小野小町に次ぐ女流歌人として高い評価を受けています。宮廷社会での複雑な人間関係や恋愛を経験しながら、繊細な感性で数々の秀歌を残しました。

(提供:嵯峨嵐山文華館)
目次
伊勢の百人一首「難波潟~」の全文と現代語訳
伊勢が詠んだ有名な和歌は?
伊勢、ゆかりの地
最後に
伊勢の百人一首「難波潟~」の全文と現代語訳
難波潟 みじかき葦の ふしの間も あはでこの世を 過ぐしてよとや
【現代語訳】
難波潟(なにわがた)の葦の短い節と節の間のような、ほんのわずかな時間さえも逢わないまま、私にこの世を終えてしまえとあなたは言うのでしょうか。
『小倉百人一首』19番、『新古今和歌集』1049番に収められています。難波は現在の大阪湾岸地域を指します。そこに生える葦の茎の、節と節の間というのはごく短い距離のこと。これを恋しい人に会えない時間に喩えて、「そんなわずかな時間さえも会えずに過ごせというのか」という強い思いを、初句から「みじかき葦の」までの序詞によって浮かび上がらせています。
「ふしの間も」の「ふし」は上からは節と節の間が短いこと、下へはわずかな時間も、と続き二重の意味を持たせる掛詞となっています。「過ぐしてよとや」は相手を強くなじるようではありますが、逢いに来てくれない男性への激しい思慕の情も垣間見えます。

(提供:嵯峨嵐山文華館)
伊勢が詠んだ有名な和歌は?
「三十六歌仙」の一人に選ばれているだけあり、伊勢は多くの和歌を残しています。その中から二首紹介します。

1:春ごとに 流るる川を 花と見て 折られぬ水に 袖や濡れなむ
【現代語訳】
春になるたびに、流れる川に映った影を花と見間違えて、折ることのできない水に袖が濡れるのだろうか。
『古今和歌集』43番に収められています。詞書(ことばがき、和歌の前書きのこと)には、「水のほとりに梅の花咲けりけるをよめる」とあります。水に映る梅の花を実際の花と勘違いし、折ろうとするも叶わず袖を濡らしてしまう様子を描いています。
この失敗を毎年繰り返しそうだと嘆いているユーモラスな表現から、花への深い愛情と詩的な感性が伝わります。また、水面に映る美しい花影と、それに寄り添う女性の姿が情景を艶やかに彩り、平安時代ならではの感性豊かな美しさを感じさせる歌です。
2:年を経て 花の鏡と なる水は ちりかかるをや 曇ると言ふらむ
【現代語訳】
永いあいだ、花を映す鏡となっている水は、普通の鏡とは違って塵がかかるのを曇るというのでなく、花が散りかかるのを曇ると言うのだろうか。
『古今和歌集』44番に収められています。前の歌と同じ題がついています。川の水面を「花の鏡」と見立て、通常の鏡であれば年月とともに塵がかかって曇るものですが、この自然の鏡である水面は、花びらが散りかかることを「曇る」と表現する、という洒落た発想を詠んでいます。
「ちりかかる」という言葉に、「塵がかかる」と「花が散りかかる」という二重の意味を持たせた言葉遊びも巧みです。また、女性らしい感性で「鏡」という日常的な化粧道具を詠み込んだところにも伊勢らしさが表れています。
伊勢、ゆかりの地
伊勢、ゆかりの地を紹介します。
伊勢寺(いせじ)
大阪府高槻市に所在する曹洞宗の寺院で、伊勢の旧居跡に建立されました。金剛山象王窟(こんごうさんしょうおうくつ)を背景に位置し、聖観世音菩薩を御本尊としています。
境内は自然豊かで、伊勢自身が和歌に詠んだような桜をはじめ、紅葉、紫陽花、萩、イチョウなど、四季折々の風景を楽しむことができます。
最後に
伊勢の歌からは、単に美しい情景や恋愛感情だけでなく、彼女の繊細な感性や生き方への熟慮が垣間見えます。そしてその歌には、誰もが共感を覚える「普遍性」もあります。百人一首を通じて古人の心に触れる楽しみは、まさに「心の教養」といえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『全文全訳古語辞典』(小学館)
『原色小倉百人一首』(文英堂)
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●執筆/武田さゆり

国家資格キャリアコンサルタント。中学高校国語科教諭、学校図書館司書教諭。現役教員の傍ら、子どもたちが自分らしく生きるためのキャリア教育推進活動を行う。趣味はテニスと読書。
●構成/京都メディアライン・https://kyotomedialine.com
●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp
