はじめに-源頼親はどのような人物だったのか
源頼親(みなもとのよりちか)は、当時「武勇人」とされ、京内外の盗賊捜索や犯人逮捕に従事した人物です。長く奈良の興福寺と紛争を繰り返し、宮中の権力者・藤原道長を悩ませました。
現代では、知名度が高いとはいえない源頼親は、一体どのような人物だったのでしょう。史実をもとに紐解きます。
目次
はじめに-源頼親はどのような人物だったのか
源頼親が生きた時代
源頼親の足跡と主な出来事
まとめ
源頼親が生きた時代
源頼親が生きたのは、藤原道長が権力の頂きへとひた走っていた時代です。道長・頼通父子が強大な権力を握っていました。頼通は、後一条(ごいちじょう)・後朱雀(ごすざく)・後冷泉(ごれいぜい) 天皇の3代にわたって摂関となりました。この中で、頼親にはこの後冷泉天皇の頃までの記録が残っています。
源頼親の足跡と主な出来事
源頼親の生没年は不詳。晩年については、永承5年(1050)に土佐に流されたところまでは記録にあり、長寿であったことがわかります。その生涯を主な出来事とともに辿りましょう。
父が仕組んだ藤原氏との連携
源頼親は、源満仲(みつなか)の次男として生まれました。兄は、大江山の鬼退治伝説でも知られる、「らいこう」こと、源頼光(よりみつ)。頼親自身も武勇人とされ、検非違使として、京内外の違法行為の摘発や犯人逮捕に従事しました。
少し時代をさかのぼり、父・満仲は、安和2年(969)の安和の変(あんなのへん)を仕組んだ人物といわれます。左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)が、謀反の疑いをかけられ失脚。これは藤原氏による他氏排斥であり、以降、摂関体制が強化されました。満仲は、藤原氏と結ぶことで武人として確かな地位を確立し、頼親らも朝廷で存在感を発揮することになります。
のちに頼親は淡路、信濃、周防などの受領を歴任。なかでも大和守(やまとのかみ)を3度務めたことで、大和国に大きな勢力を形成していきました。
興福寺との紛争が勃発
この頃、大和で強い勢力を持っていたのが興福寺です。頼親は長年にわたり、所領をめぐって興福寺と紛争を繰り広げました。そのきっかけは、最初に大和守に任命された寛弘3年(1006)、馬充(うまのじょう)・当麻為頼(たいまのためより)が、興福寺領を侵略して、殺人事件を起こしてしまったこと。
藤原道長の『御堂関白記』同年3年6月14日条に、同寺から、「当麻為頼により、興福寺領池辺園預を殺害された」との訴えが朝廷にあり、道長が頼親をただしたところ、「山階寺(興福寺)から約3000の僧が為頼の館に押し寄せて焼き、田畑を踏み損じた」という主旨の報告があったことが記されています。
なぜ、為頼が殺人を犯したのか理由は明らかではありませんが、主人たる頼親自身におとがめがないどころか、その後も大和守を務めることになります。
【「殺人の上手なり」といわれる。次ページに続きます】