はじめに-藤原元子はどのような人物だったのか
藤原元子(ふじわらのげんし/もとこ)は、一条天皇の女御のひとり。一方で想像妊娠(流産との説も)や、源頼定(よりさだ)との密通などでお騒がせな印象も強い藤原元子は、実際にはどのような人物だったのでしょう。史実をベースに紐解きます。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』でも、一条天皇の女御(演:安田聖愛)として登場します。
目次
はじめに—藤原元子はどのような人物だったのか
藤原元子が生きた時代
藤原元子の足跡と主な出来事
まとめ
藤原元子が生きた時代
藤原元子は、「長徳の変」により中関白家の後継者だった藤原伊周(これちか)が失脚、藤原道長が左大臣となって絶対的な権力を握った時期に一条天皇の女御となります。のちに道長の娘・彰子が入内し、中宮に。道長の世が到来した時代でした。
藤原元子の足跡と主な出来事
藤原元子の生没年は、不詳です。長徳2年(996)に入内。天皇の没後、源頼定と密通したといわれています。その生涯を、主な出来事とともに紹介しましょう。
一条天皇へ入内。水を産む!?
藤原元子は、左大臣・藤原顕光(あきみつ)と村上天皇皇女・盛子(せいし/もりこ)内親王との間に長女として生まれます。生年は不詳ながら、まさに名門貴族の姫君でした。長徳2年(996)11月に入内。一条天皇の女御となり、承香殿(じょうきょうでんの)女御と呼ばれます。
この時期、中宮・定子は、関白だった父・藤原道隆(みちたか)が没し、その後継者たる兄・伊周が、花山天皇の衣の袖に矢を射抜くという事件により失脚する(長徳の変)など後ろ盾を失くし、自ら落飾。こうした背景から新たな后のひとりとしての入内でした。元子は、定子が脩子(しゅうし。修子とも)内親王を出産し、内裏に戻ってからも天皇の寵愛を受けたようで、間もなく懐妊の兆候がありました。
ところが、『栄花物語』巻第五「浦々の別」には、長徳4年(998)「六月元子太秦広隆寺で水を産む」とあります。産み月になっても生まれる気配がないため、祈祷を行なっていたところ、生まれたのは水であった、というもの。想像妊娠であった説が有力ですが、流産との説もあります。
悲しい出来事ですが、元子や顕光にとって、このことは恥ずべきことであり、元子は父邸から再び宮中へは戻らなかったといわれます。
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