はじめに-一条天皇とはどのような人物だったのか
一条天皇は、定子(ていし/さだこ)・彰子(しょうし/あきこ)というふたりの女性を中宮とし、権力者・藤原道長(ふじわらのみちなが)とは、良好な関係を保って政治的な手腕を発揮しました。では、実際にはどのような人物だったのか、史実をベースに紐解きましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、藤原道隆(みちたか)の長女・定子を寵愛しますが、のちに道長の長女・彰子が入内し、世継ぎをめぐる政争に巻き込まれる人物(演:塩野瑛久)として描かれます。
目次
はじめに— 一条天皇とはどのような人物だったのか
一条天皇が生きた時代
一条天皇の生涯と主な出来事
まとめ
一条天皇が生きた時代
一条天皇の時代は、藤原兼家(かねいえ)とその息子である道隆、道兼(みちかね)、道長が権勢を確立する過程とリンクしています。また、定子に仕えていた清少納言、彰子に仕えた紫式部、和泉式部、赤染衛門(あかぞめえもん)など、宮仕えの女房による女流文学が花開いたのもこの頃。いわゆる藤原文化の最盛期でした。
一条天皇の生涯と主な出来事
一条天皇は、天元3年(980)に生まれ、寛弘8年(1011)に没しています。その生涯を、主な出来事とともにひも解いていきましょう。
先代が突如出家し、数え7歳で即位
第66代・一条天皇は、天元3年(980)、円融(えんゆう)天皇の第一皇子として生まれます。諱(いみな)は、懐仁(やすひと)。母は藤原詮子(せんし/あきこ)で、藤原兼家の娘でした。
従兄である先代・花山(かざん)天皇が、18歳で突然の出家という事態を受け、数え7歳で即位。寛和2年(986)に起こったこの一連のこの「寛和の変」は、詮子の父・兼家が三男の道兼を使い、寵愛する忯子(しし/よしこ)を失った天皇の悲しみを利用して、出家へとたきつけた画策によるものでした。
一条天皇即位に際して、皇太子にはやはり従兄の居貞(おきさだ)親王(冷泉天皇の子 のちの三条天皇)を立て、摂政に兼家が就任します。
兼家が没すると、長男・道隆(みちたか)が外戚として関白となり、正暦元年(990)、その娘・定子が入内し、中宮に。しかし道隆は、長徳元年(995)に病没。関白を継いだ次男・道兼はわずか7日後に没し、道長が姉・詮子の推挙で、内覧(ないらん 天皇への文書や、天皇が裁可する文書一切を最初に読む役職)となります。
道長は、政敵の藤原伊周(これちか)を「長徳(ちょうとく)の変」で、大宰府に左遷することに成功しており、ここに実権を掌握しました。ちなみに長徳の変とは、藤原伊周(これちか)と弟の隆道(たかみち)が、花山(かざん)法皇一行を襲撃し、法皇の衣の裾を射抜いてしまうという事件。法皇が、同じ女性のもとへ通っているという伊周の勘違いが原因でした。
【ふたりの皇后、定子と彰子。次ページに続きます】