取材・文/坂口鈴香
介護は実子――。親世代はともかく、そう考える子世代が増えている。理屈はわかるが、それでも個々の家庭の歴史や事情によるのではないかと言うのは、沢登勇さん(仮名・58)だ。沢登さんの親の介護をめぐって妻とは険悪になり、離婚寸前までいったという。
妻に期待したのが間違いだった
沢登さん家族は、沢登さんの両親が実家を建て替える際、費用を全額出してくれるというので、二世帯住宅で同居することにした。20年ほど前のことだ。
「そのとき妻は、家の間取りや設備など、細かに希望を出したうえで、親の金で家を建てて同居するのだから、将来は親の面倒も見ると約束してくれていました」
ところが、妻はそんな約束などなかったように、同居しても沢登さんの両親には一切かかわろうとしなかった。二世帯住宅ということもあり、もはや沢登さんの両親は二人で暮らしているのとまったく変わらない。元気なころは問題なかったが、両親が歳を取り、病院通いが増えるとともに生活への不安が大きくなっていった。
沢登さんが不在のとき、父親が転倒し、母一人ではどうにもできず、沢登さんの職場に連絡がきたこともあった。そのときは沢登さんが急いで自宅に戻り事なきを得たが、何か不測の事態が起きても誰にも気づかれないのは心配だと、両親はサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)に移ることを決めた。両親の不安が大きかったため、沢登さんも不本意ながらサ高住への住み替えに同意したのだ。
「それまで妻には、時には親の様子を見てほしいといくら言っても、顔を見に行くことさえありませんでした。母が体調を崩し、起き上がれなくなっていたときも、妻は自分の親と旅行に行ってたんです。いくら何でもそれはないだろうと怒りが抑えられませんでした。妻と結婚する前に、妻はずっと祖母を介護していたと言っていました。それほど年寄りに優しい人なら、私の親も大切にしてくれるだろうと期待していたのが間違いでした」
沢登さんは、両親を失望させ、同居を解消することになったのが、どうしても許せなかった。自分たちが建てた家に住み続けられない両親が不憫でならなかったという。
「家に帰りたい」父親だけが自宅に戻った
自宅での暮らしに不安を抱き、サ高住に移った両親だったが、そこでの暮らしになじめなかった。食堂に行く以外は狭い部屋で顔を突き合わせているしかない。職員とも必要最低限のコミュニケーションしかなかったようだ。ほかに楽しみも見つけられず、「家に帰りたい」と訴えることが増えていった。
「とはいえ、私も仕事が忙しく二人の面倒を見る余裕はありません。母の方が一人ではできないことが多かったので、サ高住にいた方が安心だと思いました。父は、身の回りのことは自分でできましたし、自分の家で暮らしたいという気持ちが強かったので、母にはかわいそうでしたが、父だけ自宅に戻すことにしたんです」
父親だけを戻すというのも、沢登さんにとっては苦渋の選択だった。沢登さんの気持ちが伝わったのか、両親は沢登さんの決断に抵抗することなく、黙って従ってくれたのだという。
しかし、父親と離れ離れの生活になったせいか、母の体調は急激に悪くなり、ふさぎ込むことも増えた。そしてある日部屋で倒れ、搬送された病院で亡くなってしまった。あっけない最期に、沢登さんは事態が呑み込めないほどだった。
「自宅に呼び戻すなら、母にすべきだったと激しく後悔しました。母は自分でできないことは多くなっていましたが、『人の世話になるのは嫌だ』『衰えた姿を他人に見られたくない』と言っていました。それなのに、父だけを自宅に戻したのは私の間違いだったのです」
母だけをサ高住に残したことが、母の命を縮めることになってしまったと沢登さんは嘆く。
【後編に続きます】
取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。