有馬温泉の秀吉像。

「国家とはなにか」を考えるために、私たちは奈良の古代都城への旅に出た。

三重大学の藤田達生教授の著書『戦国秘史秘伝』では、奈良の藤原京、平城宮という古代都城と、800年ほど経った戦国時代に築かれた安土城、聚楽第、大坂城などがいずれも世界を意識した都市だったとする。

『どうする家康』の劇中、家康(演・松本潤)と対峙している渦中にも進められていた秀吉(演・ムロツヨシ)の政権都市構想とは? 藤田達生教授の『戦国秘史秘伝』から抜粋する。

倭から日本へと国号が変わった時期に、我が国にとって初の条坊都市・藤原京が造営された。大宝元年(701)に大宝律令が制定され、翌年には三十三年ぶりに遣唐使も派遣された。

当時の政権担当者たちは、東アジアの文明国家への仲間入りを、国の威信をかけて進めていたのである。先述したように、慶雲元年に戻ってきた遣唐使から情報を得た結果、最新の中国の文化や制度を導入するために、わざわざ藤原京を捨てて平城京への遷都がおこなわれた。

北に大極殿を置き真南に朱雀大路を通すタイプの都城は、平城京以後、日本の都の基本プランとなった。中国周代の理想的な王朝制度を記した儒教の古典『周礼(しゆらい)』は、首都の位置は天が地上の中心点として指定した場所であり、天命によって諸侯に君臨する天子の居住地であるとされる。これは、平城京や平安京ばかりか、遥か後の安土城にも影響を与えているという。

唐の首都長安では、宮城(大極殿を中心とする大内裏)の真南に軸を伸ばしてメインストリートにし、そのラインに皇城(官衙)と三つの門(三門)を配置するプランを採用している。近年の発掘によって、安土城にも「大手門」に三門が存在することが明らかになった。中国の伝統思想の影響を色濃くうけていたとする指摘がある。

安土城本丸が宮城に相当するならば、その中枢に位置する天主は天子(皇帝・天皇)の執務空間すなわち大極殿にあたる。そもそも「天主」=神という呼称そのものが、天命の源であることを物語っている。天下人信長の執務空間たる天主は、安土城の中心軸に配置された。

また藤原京を経て平城京の段階から、礎石建の建物が本格的に採用されてゆく。これに関連して、近年の安土城の発掘成果に注目したい。戦国城郭は、戦時の要塞だったから建造物は掘立式で十分だった。ところが、安土城からは礎石建となり瓦葺きとなった。あわせて、尾張などを本国とする家臣団も、安土城下町への移住を強制されている。

これからは、信長が安土城を恒久的な政庁と位置づけたことが判明する。また、与えられた城下町の居住区に尾張などの諸国から移住した家臣団は、領主に代官というべき性格を付加されたとみるべきである。つまり、信長の安土築城は新国家建設のための起点となる事業だったのだ。

この安土城下町の普請にみる本拠地からの強制移住政策は、実は都城制度にヒントを得たのではないかと思うことがある。先回、藤原京への豪族たちの集住策によって、本拠地から切り離された官人が誕生したことに注目したのであるが、秀吉による聚楽第普請と御土居(京都を囲む土塁)築造による京都の改造も、信長以来の首都構想として評価するべきである。

天正十四年(1586)二月からは、秀吉は平安京大内裏跡の内野に広大な京都屋敷すなわち聚楽第の建設を開始する。その周辺には、豊臣大名が軒を連ねることになる。さらに北条氏攻撃をひかえた天正十七年九月に、秀吉は全豊臣大名に対して夫人とともに在京することを命令した。これは、豊臣政権の専制化と深く関わっている。

この在京令は、ただちに各大名に通達された。たとえば、翌月には大友氏のもとにも「取次」(仲介役)である毛利氏から「豊臣秀長御内様(夫人)まて在聚楽候」との情報が寄せられ、「義統様御父子中」の在京が要求されている。大名屋敷の設置と参勤制度の成立を考えるうえでも、この天正十七年令を画期として評価せねばなるまい。

秀吉は、天正十九年正月に大規模な町屋の移転を命令し、長者町・聚楽町・禁裏六丁町などが存在した聚楽第から禁裏にかけての土地を諸大名に下賜し、豪華な大名屋敷を建設させた。それまでに分散的に存在していた大名屋敷を、秀吉の首都構想に沿って、一定地域に集中させようとしたものであった。これは、寺町の形成とも併行して進められ、同時に洛中を囲む大規模土塁・御土居の普請も開始された。

天下統一の進捗に伴って、聚楽第周辺には豊臣直臣ばかりか服属大名の屋敷が軒を連ねた。大名の参勤に従って、諸国からは大量の武士が京都に集まってきた。また聚楽第の建設や天正十六年から再開された方広寺大仏殿造営などのために、商工業者をはじめ日用(ひよう)層(日雇い労働者)などの労働人口の爆発的な増加がみられた。

イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、天正十九年における京都の変貌についてふれ、公家・武家を除いた町人の人口の増加を「当初この町(の人口)は八〇〇〇ないし一万ほどであったが、今では戸数三万を超えると言われ、ますます拡大しつつある」と記している(『日本史』)。

秀吉は、このような大規模な人口流入に対応すべく、京都の大改造を断行したのであるが、天正二十年段階で「平安城」と表現しているのは興味深い。やはり平安京を意識していたのだ。そうすると、前年に完成していた京都を囲繞する御土居は、羅城というべきだろう。

藤原京から平城京へと遷都しながら、古代国家は中国を模倣した文明国家へと脱皮しようとした。それから、八五〇年も後の信長、秀吉、家康による天下統一の時代にも、古代の中国や日本の都城制度を意識した、巨大かつ華麗な首都が構想されたとみることができるのではないか。

安土から京都へ、さらに伏見から江戸へと、天下人の交代によって巨大都市が次々に出現し、官僚としての大名、そして武士と商工業者との身分序列が明瞭化し、それぞれの居住区が整備されていったのである。

誤解を恐れずに言うならば、律令体制への移行にあたっては、豪族による私有地の制限と国土の班田化が、幕藩体制への移行の前提としては、天下統一戦争による戦国大名領の否定・収公と検地が不可欠だった。国家統合の時代には、軍事力はもとより政治・経済の集中管理という側面からも、突出した政権都市が必要だったのである。

構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり


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