はじめに-石川数正の出奔とはどんな出来事だったのか?
天正13年(1586)、徳川家康の重臣・石川数正が、豊臣秀吉のもとに出奔(しゅっぽん。逃げ出して行方をくらますこと。)しました。数正が出奔する前年には、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)と手を組んだ家康と秀吉との間で「小牧・長久手の戦い」が勃発しています。
この時、数正は家康の家臣として、岡崎城の城代を務めていました。しかし、その後、秀吉のもとに出奔し、彼の家臣として生涯を終えることとなったのです。家康が今川氏の人質だった頃から、家臣としてそばにいた数正。彼が出奔した本当の理由については、未だにわかっていません。
数正出奔の真相について、史実をベースにしながら紐解いていきましょう。
目次
はじめに―石川数正の出奔とはどんな出来事だったのか?
なぜ石川数正は出奔したのか?
関わった人物
この出来事の内容と結果
その後
まとめ
なぜ石川数正は出奔したのか?
石川数正は、松平家の家臣・石川康正の子として生まれます。天文18年(1549)から、今川氏の人質となった竹千代(のちの家康)に随行し、永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」を機に家康が独立を果たすと、酒井忠次・石川家成とともに、老臣として彼を支えました。
家康独立の際、数正は決死の覚悟で駿府まで赴き、家康の正室・築山殿とまだ幼い長男・信康を無事に連れ帰ったり、外交役を務めたりと、徳川家に貢献し続けました。家臣団の中でも切れ者として知られた彼がいなければ、家康が出世を果たすことは難しかったでしょう。
主君である家康からも絶大な信頼を置かれていましたが、「小牧・長久手の戦い」を最後に、家康のもとを去ってしまうのです。その理由として、「秀吉軍の方が強く見えたから」「秀吉から家臣になるよう勧められたから」など、様々な憶測が立っていますが、本当の理由は謎に包まれています。
しかし、家臣として長年家康に仕えた数正が、そのような理由で秀吉になびくとは考えにくいですね。
関わった人物
では、数正出奔に関わった主な人物について、紹介します。
石川数正
家康の人質時代から家臣として仕えていた徳川家の重臣。非常に聡明な人物で、内政や外交面で家康を支え続けた。しかし、家康のもとを去り、秀吉の家臣として仕えるようになる。
徳川家康
岡崎城主・松平広忠の子として生まれ、幼少期を織田氏・今川氏の人質として過ごす。人質だった頃からそばにいた数正のことを大変信頼していた。
豊臣秀吉
農民の出身にも関わらず、優れた行動力と才覚によって大出世を果たした三英傑の一人。「小牧・長久手の戦い」の際、好条件を出して数正を家臣団に引き入れたとも言われている。
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