この出来事の内容と結果
天正12年(1584)、秀吉の勢力拡大を恐れた信長の次男・信雄が家康を説得し、二人で秀吉を倒そうと決意します。「小牧・長久手の戦い」と言われるこの戦いの最中、数正は家康に岡崎城の城代を任されました。
戦いは膠着状態になりましたが、翌年の天正13年(1585)、両者が和解したことで終結。平穏が訪れたかのように思えたのもつかの間、重臣の数正が岡崎城を出て秀吉のもとに出奔してしまったのです。
徳川家の軍事機密を知る重臣の出奔は、家康やほかの家臣たちに大きな衝撃を与えたことでしょう。秀吉は出奔した数正に対し、和泉国(現在の大阪府南西部)の所領を与えました。このことから、秀吉が条件を提示して数正を誘惑したのではないかと言われています。
一方で、数正が家康のもとを去った背景には、家康の長男・信康の死が関係しているのではないかという説もあります。当時の徳川家臣団は、前線で活躍していた浜松派と、主に後方支援を行った岡崎派に分かれていました。
数正は岡崎派の中心的役割を果たしながら、信康を支持していたのです。予定通りに信康が家督を継げば、彼を支持する岡崎派が徳川家中の実権を握ることができたでしょう。しかし、武田氏内通の嫌疑をかけられて自害したことで、全て水の泡となってしまいました。
数正は、信康の死という精神的苦痛と徳川家中での発言力低下により、徳川家をあとにしたのかもしれません。
その後
岡崎城を出て、秀吉のもとに出奔した数正は、和泉国内に所領を与えられ、天正18年(1590)の「小田原攻め」での功績を称えられ、信濃国(現在の長野県)8万石と松本城(現在の長野県松本市にある城)も与えられました。重臣として家康を支え続けた実力を、秀吉も認めていたと言えるでしょう。
しかし、その後間もない文禄元年(1592)、肥前国(現在の長崎県と佐賀県)の名護屋に出陣し、同地で亡くなりました。数正の葬儀は、京都の七条河原にて行なわれたそうです。
まとめ
長年家康に付き添い、重臣として彼を支え続けた石川数正。突然の出奔には、家康もかなり動揺したことでしょう。数正がなぜ家康のもとを去ったのかはわかりませんが、徳川家の家臣としての役目を果たしたと感じていたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『世界大百科事典』(平凡社)