はじめに-「神君伊賀越え」とはどんな出来事だったのか
「神君伊賀越え」とは、「本能寺の変」で信長が自害に追い込まれたという知らせを受けた家康が、慌てて三河へと引き返した避難行のことです。同盟関係にあった信長の死は、家康にとって大きな痛手でした。家臣らに支えられながら、家康は三河を目指して、苦難の旅をすることになったのです。
「三河一向一揆」や「三方ヶ原の戦い」に並ぶ、家康の三大危機の一つである「神君伊賀越え」がどのような出来事であったのか、史実をベースにしながら解説します。
目次
はじめに―「神君伊賀越え」とはどんな出来事だったのか
「神君伊賀越え」はなぜ起こったのか?
関わった人物
この出来事の内容と結果
その後
まとめ
「神君伊賀越え」はなぜ起こったのか?
天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀率いる軍勢が、信長のいる本能寺を包囲しました。光秀の軍勢は約1万3000人であったのに対し、信長は護衛を含めて150人ほど。槍や弓などの武器しかなく、用意周到な光秀軍を前に、なす術もありませんでした。
勝ち目はないと悟った信長は、寺に火を放って自刃しました。信長が光秀に殺害されたという知らせは、周囲を震撼させます。家康もその一人でした。
ちょうど大坂の堺を見物していた家康は、信長の訃報を受け、畿内をあとにします。途中で命を落としてしまうかもしれない恐怖に怯えながら、険しい道のりを辿って、三河を目指すこととなったのです。
関わった人物
では、神君伊賀越えに関わった主な人物について、紹介します。
・徳川家康
三河の小大名・松平氏に生まれ、幼少期を隣国である駿河の大名・今川氏の人質として過ごす。「本能寺の変」で信長が殺害されたことを知り、三河へと引き返すことを決意する。
・井伊直政
「赤鬼」の異名を持つ、徳川四天王の一人。「神君伊賀越え」の際には、討ち死にする覚悟で家康を守り抜こうとした。
・本多忠勝
徳川四天王の一人で、その強さは敵の武田軍にも評価されるほど。「神君伊賀越え」の際には、憔悴しきった家康を励まし続けたとされる。
・服部半蔵
伊賀者と呼ばれる忍者集団を統率した、家康の家臣。伊賀に詳しかったこともあり、家康を無事三河へ帰還させることに貢献したとされる。
・穴山梅雪
元々武田家の家臣だったが、離反し、徳川方についた人物。「神君伊賀越え」の際に、三河への帰国を図るが、途中で一揆に巻き込まれ、命を落とす(諸説あり)。
・茶屋四郎次郎
徳川氏の御用商人として活躍した、京都の豪商。「本能寺の変」で信長が殺害されたという知らせを、いち早く家康に伝えたとされる。
この出来事の内容と結果
「本能寺の変」で信長が自害した時、家康は大坂の堺にいました。安土城にて、もてなしを受けた後、信長に堺見物を勧められたのです。信長にお礼をするべく京都に向かおうとした家康でしたが、信長が光秀に殺害されたという、衝撃の知らせを耳にします。
このことをいち早く知らせたのは、家康とつながりがあった京都の豪商・茶屋四郎次郎だと言われています。信長殺害後、光秀は彼の長男・信忠も自害へと追い込んでいました。信長の同盟者であり、京都からほど近い場所にいた家康も、命を狙われかねない状況にあったのです。
信長の敵討ちをするにしても、家康の周りには護衛を含めて30人程度しかいませんでした。その上、戦力となる有力な家臣たちを失うということは、家康にとって大変大きな痛手となります。どうすることもできなくなった家康。自害することも考えたそうですが、忠勝や直政などの家臣たちが何とか説得し、三河へ帰国することを決意したのです。
【家康は、どういうルートで帰還したのか? 次ページに続きます】