江副浩正(えぞえ・ひろまさ)をご存知でしょうか。マネジメント課題解決のためのメディアプラットホーム「識学総研(https://souken.shikigaku.jp)」では、最近再評価されつつある江副浩正について、その功罪を解説します。
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「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
「目標を大きく持て。志が小さければ人間も小さくなる」
「いつの場合も引っ込み思案は敵、積極果敢は味方」
これらは、今回紹介する江副浩正の言葉です。江副浩正と言ってもピンと来ない方もいるかもしれませんが、リクルートの創業者といえばわかりやすいのではないでしょうか。
日本史上最悪の贈収賄事件とされる「リクルート事件」でも注目されましたね。事件のせいもあり、あまり良いイメージを持たれていない方もいるかもしれませんが、江副浩正は近年になって再評価されていることをご存知でしょうか?
本記事では、江副浩正の人生や逸話を紹介し、その功罪について解説していきます。
江副浩正の生い立ち
昭和11年(1936年)、江副は愛媛県に生まれます。その後、一家は大阪市天王寺区に移りましたが戦災により家を失い、豊中市に引っ越しています。母親は病によって実家に戻ってしまったため、江副は母親の記憶はなく、住み込みのお手伝いさんに育てられました。
父親は中学の教師をしており、非常に厳しかったといいます。近所の子どもと喧嘩をして泣いて帰ってくると、「泣きながら家に帰る奴があるか。外に出て涙を拭いて入り直せ」と怒られるほどだったため、江副は父親に心を開くことはなかったそうです。
第二次世界大戦が起こり、江副は佐賀にある祖父の家に移ります。戦争が終わってから父親のもとに戻りますが、そこでは重苦しい生活が待っていました。
東京大学進学で話題を呼ぶ
決して裕福な暮らしではありませんでしたが、卒業生総代に選出されるほど優秀だった江副は、名門校の甲南中学・高校に進みます。当時、甲南中高に通う生徒は高級住宅地に住む資産家の子どもか、中流以上の家庭の子がほとんどで、教師の息子に過ぎない江副のような生徒は少数でした。
甲南中高での江副は、運動においても勉強においても目立つところはなく、周囲の人間に特別な印象を与える存在ではなかったようです。しかし、この頃から異端児の片鱗を見せていました。
それは、周囲が当然のように英語を勉強するなか、東大受験を有利に進めるために英語よりも受験生が少なく、問題の難易度が低かったドイツ語を選択したことです。このような選択をする生徒は他にいなかったため、江副の東京大学合格は甲南中学・高校の生徒の間で話題になりました。
東京大学に落胆 アルバイトを始める
東京大学に進学した江副ですが、高校時代にイメージしていた大学の姿とは異なっていたため、授業に関心を持てなくなってしまいました。そこで、学校には行かず週に2回のアルバイトを2つと、デパートの屋上でアドバルーンを上げるアルバイトをするようになります。
そんな大学生活を送る中、掲示板にあった「月収1万円。東京大学学生新聞会」という募集を見て応募をし、採用されます。当時は大卒の初任給が1万円ほどであったため、月収1万円のアルバイトは非常に高給でした。
東京大学新聞社で法人向けの営業を学ぶ
江副はこの時、財団法人東京大学新聞社の常務理事であった天野勝文氏から、次のように言われました。
「新聞は販売収入より広告収入が上回る時代になった。広告もニュースだ。明日から新聞を広告から読んで、東大新聞の広告を開拓してくれないか」
江副はすぐに映画館などの法人に営業を行いますが、なかなかうまくいきませんでした。月収1万円というのも、歴代で最も成績が良かった人物の数字を載せただけであり、成績次第では収入が上がることもありません。
そして、ついに辿り着いたのが、採用の広告でした。当時の優秀な学生は日頃から新聞を読んでいたため、採用広告であればどの企業に売り込んでも売れると考えたのです。企業の法人経験はありませんでしたが、江副は自分で営業を続けるうちに、法人営業のコツを掴みました。
このように、江副浩正は財団法人東京大学新聞社で法人向けの営業を学んでいったのです。
リクルートの前身を設立
そして、昭和35年(1960年)にはリクルートの前身となる大学広告を設立します。起業の際には、東京大学新聞編集部の先輩であり、森ビルの実質的な創業者である森稔氏が経営する賃貸ビル「第2森ビル」の屋上に事務所を借りていました。
大学広告では、初の自社商品である、大学生への求人情報だけを集めた就職情報誌『企業への招待』を発行します。江副は『企業への招待』を通じて、企業からの新卒採用情報を広く公開し、就職マーケットの創造に力を入れていきました。これにより、求人広告という業界の地位を向上させたのです。また、この『企業への招待』は後の『リクルートブック』となりました。
さまざまな事業を展開する
その後、営農事業、不動産業、旅行業などにも進出したほか、リゾート施設の運営や住宅デベロッパーなどさまざまな事業を展開しています。
こうしてリクルートは東京の一等地に自社ビルを持つほどに成長しましたが、まだ歴史が浅い新興企業であったため、歴史がある大企業からは距離を置かれ、財界では孤立していました。
その悔しさからリクルートは財界で地位を高めようと、さまざまな業界での交流を深める努力をしました。しかし、これが後のリクルート事件につながることになります。
江副浩正の人物像がわかる逸話・エピソード
ここまで江副浩正がリクルートを成長させるまでを見てきましたが、ここからは江副の人物像がわかる下記の逸話やエピソードを見ていきましょう。
・学生に「一緒に歴史を創らないか」と誘う
・新卒面接が最優先
・採用のために70億円のスパコンを購入
それでは1つずつ解説していきます。
学生に「一緒に歴史を創らないか」と誘う
リクルートの情報誌ビジネスでは、創業の頃から多くの学生アルバイトを雇っていました。また、リクルートの新入社員の一番の仕事は、自身の出身大学で自分よりも優秀な人材や、周囲に一目置かれている人材を見つけ出し、接触することでした。
そして、就活の時期になると東大赤門前の寿司屋の2階を3か月間も貸し切りにして、可能性を感じる学生を招待するのです。
そこでは江副が学生を迎え入れ、このように語りかけます。
「君たちは22年の人生で先人が創った歴史を学んできた。でも23歳からは自分で歴史を創るんだ。リクルートならそれができる。一緒に歴史を創らないか」
これは見せかけの言葉ではなく、リクルートでは実際に新入社員が「やりたいこと」に予算をつけて、本人を責任者として仕事をさせるのです。
新卒面接が最優先
江副にとっては、他にいかなる重要な仕事があろうとも、どうしても採用したい学生の面接が最優先事項でした。実際、巨額の投資を決定する重要な取締役会と、採用したい学生の面接がダブルブッキングすると、「僕は面接に行くから、あとは皆で決めておいて」と会議室を立ち去ったというエピソードがあります。
そして、人事部には口癖のようにこう言い聞かせていたといいます。「君たちは20年後のリクルートの社長を採用しているんだ」
こうして、リクルート全体で「採用が最も重要である」という共有認識が生まれるようになり、採用に甚大なエネルギーを使うリクルートの文化が育まれたのです。
採用のために70億円のスパコンを購入
昭和60年(1985年)当時、情報媒体としては紙が一般的でしたが、江副はコンピュータネットワークを用いたオンラインサービスに切り替える方針を打ち出します。そして、このときに人事部に出した指令は下記のようなものです。
「東大クラスの理工学部を1,000人採用しろ」
つまり、何もしなければトヨタ自動車や日立製作所に勤めるはずの工学部のエリート学生を、リクルートで採用しろということでした。常識的に考えると出版・広告業であるリクルートには工学部の学生は就職しようとは考えません。そこで江副は、採用のためにスーパーコンピュータを2台も購入します。
スパコン目的の学生を狙う
江副はこのとき、アメリカで最先端のスーパーコンピュータ2台と富士通のスーパーコンピュータを購入し、合計70億円も使っています。しかも、その70億円は「採用費」として計上しているのです。
当時はスーパーコンピュータを複数台持っている企業などなかったため、工学部のエリート学生たちは「リクルートに行けばスーパーコンピュータが利用できる」と、こぞってリクルートに集まりました。そして、実際に1,000人近くも採用することに成功しましたが、採用のために1人あたり実に700万円を使ったことになるのです。
江副浩正の功罪とは? 評価が分かれる理由
江副はかなりクレイジーと言っても過言ではない人物でしたが、起業家として優秀であったことは間違いありません。しかし、後のリクルート事件で有罪判決となったように、彼には功罪の両面があり評価が難しい存在でもあります。
経済産業省による2020年度調査において、存在が確認された大学発ベンチャーは2,905社で過去最高を記録しています。このように、今でこそ少しずつ増えている大学発ベンチャーですが、リクルートが創業された1960年代はまだまだ大学発ベンチャーなどはほとんど存在していませんでした。そのようななかで創業されたリクルートは、大学発ベンチャーの走りであり、昭和最大のベンチャーに成長したのです。
(参考:大学発ベンチャー実態等調査の結果を取りまとめました丨経済産業省;https://www.meti.go.jp/press/2021/05/20210517004/20210517004.html)
リクルート事件の「罪」
江副の功績は、大学発ベンチャーの元祖として巨大な企業に成長させたことです。その一方で、政界との交流を深めることを目的とした未公開株バラマキという汚職事件、「リクルート事件」を起こしてしまいました。
この事件によりリクルートは大きな批判を受けますが、当時の報道では「ベンチャーは所詮ベンチャー」という見下すようなニュアンスがありました。大きく成長したベンチャーが多方面からあの手この手で叩かれる様子を見て、これから起業を考えていた人や何かを生み出そうとしていた人は、少なからずひるんだはずです。これに不景気も重なり、1990年代の日本において起業する人が増えなかったのには、リクルート事件が影響している可能性があるでしょう。
再評価される江副浩正の「功」
しかし、リクルート事件から時間が経ち、江副の功罪の「功」が再評価されるようになってきました。確かに江副が起こした汚職事件は批判されるべきですが、彼が成し遂げてきた功績とは切り離して考えるべきでしょう。
江副が構築したビジネスモデルの先見性は素晴らしいものでしたし、彼の情熱や言葉に影響された起業家が現在でも多く存在します。何より、もっとも大きな功績は、日本にベンチャースピリッツを根付かせたことではないでしょうか。
ジェフ・ベゾスと同じことを考えていた江副浩正
実は江副は、あのAmazon.comの創業者であるジェフ・ベゾスの上司だった期間があります。
ジェフ・ベゾスはもともとファイテルというベンチャー起業の平社員として働いており、江副はそのファイテルを買収した企業のトップだったのです。
当然、ファイテルの買収は単なる思いつきではありません。昭和59年(1984年)に日本で通信の自由化が決まったことを受けて、日本の通信を独占していた日本電信電話公社が民営化されると同時に、民間企業が通信事業に参入できるようになったのです。1987年にファイテルを買収したのは、このような時代背景があってこそでした。
AmazonのAWSを30年前に構想
江副は日本の川崎とロンドン、ニューヨークに通信機能を備えた巨大コンピュータ基地を作り、これらを結んで金融機関などにサービスを提供しようと考えていました。
奇しくもリクルート事件によってその夢は頓挫してしまうことになりましたが、現在、これと同じようなビジネスをしている企業が存在します。それがAmazon.comです。
Amazon.comはAWS(アマゾン・ウェブ・サービス)というサービスを展開しており、現在はAmazon.comの収益源の柱となっています。
まとめ
ここまで、江副浩正の半生とその功罪を見てきました。
確かに、江副が起こしたリクルート事件は許されることではありません。しかし、江副の先見性やビジネスの手腕は確かなものであり、事件を起こしてさえいなければ今頃はAmazon.comのAWSを凌ぐクラウド・コンピューティング・サービスを運営していたかもしれないのです。
このように、徐々にその功績が見直されつつある江副浩正ですが、日本でも彼のような卓越したセンスと先見性を持った起業家が生まれることを期待しています。
【この記事を書いた人】
さかした/ライター・編集者 読書と健康と猫が好きなフリーライター。 アフィリエイトサイトやアドセンスブログの立ち上げ・運営・記事の執筆を行っていたが、現在はフリーライターとして活動。 得意な分野は健康・教養・ビジネス・自己啓発など。
引用:識学総研 https://souken.shikigaku.jp/