文/鈴木拓也
定年前後に夫婦が別れる「定年離婚」が増えている――といっても、全体からすればごく少数であり、ほとんどの夫婦は定年後も夫婦であり続ける。
ただし、夫婦としての関係性は多少とも変化に見舞われる。人によっては激変することもある。
定年後のそうした変化に直面した1人が、経済コラムニストの大江英樹さんだ。
1952年生まれの大江さんは、野村証券に定年まで勤務。定年退職してから、「その後の人生に対して途方に暮れてしまいました」と述懐する。
「最初はとりあえず再雇用に応じて働いていたわけですが、何をするわけでもなく、実にウジウジしていました」と、著書『お金・仕事・生活…知らないとこわい 定年後夫婦のリアル』(日本実業出版社)で記す大江さんだが、妻の加代さんの存在が大きかったようだ。大江さんは、本書の中で加代さんを、定年からこれまでともに戦ってきた“戦友”と表現する。
もちろん「戦友」と呼べるまでには、紆余曲折と試行錯誤があったに違いない。だからこそ、加代さんとの共著である本書は、これから定年を迎えようとしている人たちに、大いに役立つ内容となっている。今回はその一部を紹介しよう。
夫婦で同じ趣味を持つべきなのか
「定年後は夫婦で同じ趣味を持とう」と、まことしやかに言われる夫婦円満術。
大江さんは、現役時代からこれに「強い違和感」を覚えていたという。
そして定年後も、同じ趣味を持つ必要性はないという考えは変わらない。理由は単純明快――「仕事でもないのに、ほとんど興味のないことを無理して相手に合わせる必要」はないからだ。
むしろ大事なのは、「相手の世界を尊重し、そこに立ち入りすぎないようにすること」だという。
大江さん夫婦には、共通の趣味として旅行と食べることがあるが、どちらかがどちらかに合わせて始めた趣味ではなく、たまたま。それ以外の趣味については、不干渉のスタンスだそうだ。
一方の加代さんも似た考えだが、「相手の趣味に一度は付き合う」を信条としている。実際、夫が定年時に習い始めたアルトサックスの発表会や京都通の食事会に参加している。アルトサックスは、思ったより楽しかったことで2回目の公演会にも参加。食事会については、知識レベルでついていけず、リピートはしなかったそうだ。加代さんは次のように説いている。
「相方」と呼べるような存在に趣味の件で誘われた場合、私は興味と義理人情から一度は付き合うようにしています。ただし、二度目の誘いに義理人情は持ち込みません。(本書23pより)
長年連れ添ったパートナーだからと、我慢して付き合うよりも、大江さん夫婦の考え方のほうが、精神衛生上ずっと好ましいだろう。かえって夫婦円満にもつながるはずだ。
夫の独立を促した加代さんの決断
今は独立して経済コラムニストとして活躍する大江さんだが、定年前は将来のビジョンもなく悩んでいた。ただ、なんとなくの独立願望はあって、そのことを加代さんに漏らしていたという。
結局、再雇用される道を選び、以前と同じ部署で働くことになったが、責任も権限もない。やりがいを見いだせず、「暇だ」「つまらない」と言いながら家を出る日々に……。
それを見かねたのが、15歳年下の加代さんだ。
実は加代さんも「70歳になったときの自分の居場所づくりを準備したい」と独立を考えていた。しかし、安定した収入のある会社勤めをやめられないでいた。
夫が定年を迎えて3か月後、加代さんは思い切った決断をする。
今こそ前々から考えていた「食」に関わる勉強を始めよう。ただし、夫が起業するなら夫の起業をまず支えよう――。そう考え、私自身が退社することを決め、それを夫に伝えました。
「二人で語り合っていた夢のための一歩を踏み出すのよ。あなたはそれでいいの?」
そう私に問われて、夫も現状維持の呪縛から解放されたようです。一人だけ「ぬるま湯生活」に取り残されてはいけないと、起業に向けて本気で動き出しました。(本書91pより)
それに驚いた大江さんであったが、“戦友”加代さんの気概に心が動かされ、独立する覚悟がついたという。
「ありがとう」を欠かさない
加代さんは、“戦友”として団結する以外の、夫婦の絆を保つ方法も教えてくれる。
それは普段のコミュニケーションの中での「気持ちの共有」だ。
「今朝は晴れていて気持ちがいいね」といった何気ない言葉の中に、自分の気持ちを相手と共有したいという願望が隠れている。
それにいちいち相槌を打たなくても生活に支障はないなどと考えてしまうと、いずれ夫婦関係にヒビが入ることになる。加代さんは次のように警告する。
「言ってもムダなら言わなくてもいいや」という状態に陥った夫婦のコミュニケーションは、仕事上のコミュニケーションの何倍も難しくなります。ちょっとしたことは我慢し、一人で解決しようとするので、相手の悩みや想いが次第に見えづらくなっていくのです。(本書178pより)
カギとなるのは、「ありがとう」というシンプルな言葉。これには、感謝の意を示すとともに、「あなたがしてくれたことをちゃんと見ていますよ」というメッセージを相手に伝える効果があるという。加代さんは、わが家は1日50回くらい「ありがとう」が飛び交うと記しているが、その効果の大きさをよく知っているからだ。こんなシンプルな言葉での気持ちの共有は、われわれも心しておくべきだろう。
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最初は軽い気持ちで手に取った本書だが、内容はなかなかどうして、含蓄に富んでおり多くの気づきを得ることができる。 定年が間近という人も、10年ぐらい先という人にも一読をすすめたい。
【今日の定年後の暮らしに役立つ1冊】
『お金・仕事・生活…知らないとこわい 定年後夫婦のリアル』
文/鈴木拓也 老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は神社仏閣・秘境巡りで、撮った映像をYouTube(Mystical Places in Japan)に掲載している。