はじめに-朝倉義景とはどんな人物だったのか
朝倉義景(あさくら・よしかげ)は、越前の一乗谷(いちじょうだに)を拠点にし、越前を治めた戦国大名として有名です。
そんな義景ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
目次
はじめに-朝倉義景とはどんな人物だったのか
朝倉義景が生きた時代
朝倉義景の足跡と主な出来事
まとめ
朝倉義景が生きた時代
義景が生きた時代は乱世であり、決断力や行動力が非常に重要な時代でした。義景は一時期、一乗谷(福井県福井市)に来た足利義昭(あしかが・よしあき)を受け入れるも、義昭の要請に応じて上洛することはせず、織田信長に先を越されてしまいます。もし、上洛を決断していれば、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
朝倉義景の足跡と主な出来事
義景は天文2年(1533)に生まれ、天正元年(1573)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
16歳で領国支配を受け継ぐ
義景は天文2年(1533)、孝景(たかかげ)の子として生まれました。当初は延景 (のぶかげ)という名前でしたが、後に足利将軍・義輝 (よしてる)の諱 (いみな) を受けて、義景と改めます。
天文17年(1548年)、父・孝景の死により16歳で領国支配を受け継ぐことに。その後、越後の上杉謙信と同盟を結んで、加賀の一向一揆の挟撃。弘治元年(1555)以降、たびたび加賀に出陣しています。
後の将軍・義昭を一乗谷に迎える
永禄8年(1565)に、将軍・義輝が家臣の三好三人衆(みよしさんにんしゅう)に殺害されると、弟である義昭は当時いた奈良を脱出。そして、義景の支配する越前に向かいます。義昭は越前に3年にわたって逗留することになるのです。
義景は義昭を拠点である一乗谷に迎え入れ、親身になって後見し、元服の儀まで行ないました。しかし、義昭を奉じて上洛することはありませんでした。理由の一つに、愛児を失って消沈、上洛しようとする気になれなかったことが挙げられるようです。
結局、義昭は織田信長を頼って上洛。信長は義景に上洛して服従することを命じましたが、義景はこれを拒否。国境の防御を固め、さらに本願寺や延暦寺とも連合を進めて信長に対抗しました。これ以降、信長の攻撃目標となることになります。
【信長と戦い、滅亡する。次ページに続きます】