はじめに-水野信元とはどんな人物だったのか
水野信元(みずの・のぶもと)は、徳川家康の伯父として活躍しました。家康の母・於大の方(おだいのかた)の異母兄であり、織田信長と家康を仲介し、同盟を成立させたエピソードは有名です。
そんな信元ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、世渡り上手で戦国を生き抜く、三河の国人領主(演:寺島進)として描かれます。
目次
はじめに-水野信元とはどんな人物だったのか
水野信元が生きた時代
水野信元の足跡と主な出来事
まとめ
水野信元が生きた時代
水野信元が生きた頃、三河やその周辺では松平氏・織田氏・今川氏などの大名が勢力争いを続けていました。誰が覇権を握るのかがわからない中で、誰に味方するのがもっとも合理的なのか、慎重に見極めなければならない状況だったのです。
水野信元の足跡と主な出来事
信元の生年は不詳で、天正3年(1575)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
水野宗家の家督を継ぐ
天文12年(1543)に父・水野忠政が亡くなると、信元が水野宗家の家督を継ぎました。これにより、信元は尾張の知多郡東部と碧海(へきかい)郡西部を支配することになります。
水野家は忠政の時代には、今川家・松平家に仕えていましたが、信元が家督を継いでからは織田家に仕えるようになりました。一説には、信元が裏切ったとも言われています。これがきっかけになり、松平家との関係が悪化、信元の妹で家康の母でもある於大の方は幼い家康を残して、松平家から離別されることになりました。
その後は、信元は織田家の家臣として様々な戦いに参加、天文23年(1554)には信長とともに今川方の村木(むらき)砦を攻撃しています。
信長と家康を仲介し、同盟を成立させる
信元の大きな功績の一つとして、信長と家康の間を取り持って、両者の間に同盟を成立させたことがあげられます。武田氏・今川氏・斎藤氏などの大名に対抗すべく、両者の利害が一致し、同盟を模索することに。信長の家臣でありながら、家康の伯父でもある信元は両者を仲介しやすい立場にありました。
信長と家康間で結ばれたこの同盟は「清洲同盟」と呼ばれることも。信義が成立しない時代であるにもかかわらず、同盟関係は約20年も続くことになります。手を組んだ信長が天下統一への道筋を作ったことを考慮すると、家康が天下人になるにあたって、この同盟は極めて重要な役割を果たしたと言えるでしょう。
同盟成立後も、信元は家康に対して影響力を行使しました。永禄6年(1563)に起きた三河の一向一揆では、家康に対して一揆側との和睦を勧めます。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは、織田方の援軍として家康が籠城する浜松城に向かい、野戦で武田方に敗走・憔悴した家康に代わって指揮を執り、窮地を脱しました。
【信長に粛清される最期。次ページに続きます】