2023年の大河ドラマ「どうする家康」で、今、あらためて注目が集まっている徳川家康。
家康といえば、多くの方が「知っている」と思うでしょうが、実は近年、歴史学の世界では家康についての認識が大きく変わってきているといいます。昭和の時代には、山岡荘八『徳川家康』などの小説が大きな影響を与えましたが、まだそれは「徳川中心史観」の影響を色濃く受けたもの。家康の実像は、それとはずいぶん異なるというのです。
教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」では、「どうする家康」の時代考証を務める小和田哲男先生の講座「家康の人間成長~戦略性をいかに培ったか(全5話)」を配信しています。今回は、このうちの「少年時代に”人質”だった家康」に関する1話目をピックアップして紹介します。
家康が少年時代に「人質」だったことは有名でしょう。しかし実はその時期においても、いわゆる「辛抱、辛抱」というイメージとはかけ離れた、ある程度、自由奔放な生活を送っていたのではないかというのです。それを物語る3つのエピソードを中心に、家康の人間成長の真相に迫っていきます。
なお、第2話では、「人質」時代の徳川家康に大きな影響を与えた太原雪斎の実像を深掘りします。
以下、教養動画メディア「テンミニッツTV(https://10mtv.jp/lp/serai/)」の提供で、小和田哲男先生の講義をお届けします。
講師:小和田哲男 (静岡大学名誉教授/文学博士)
インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
山岡荘八『徳川家康』などとは、イメージが変わってきている
――皆さま、こんにちは。
小和田 こんにちは。
――本日は小和田哲男先生に「家康の人間成長~その戦略性はいかに培われたのか」というテーマでお話をいただきます。小和田先生、どうぞよろしくお願いいたします。
小和田 よろしくお願いします。
――今回取り上げる徳川家康は、いわずもがな、長いことずっと人気がある戦国武将です。大河ドラマでいっても、例えば1983年には山岡荘八さんの小説を原作とした『徳川家康』が滝田栄さんの主役で演じられました。昭和の、特に戦後の「徳川家康」イメージには、山岡荘八さんのつくられたイメージが大きく働いているような気がします。その後、家康像は歴史の中で多少変わってきたりしているのでしょうか。
小和田 そうですね。山岡さん原作の頃はまだ、「徳川中心史観」という言い方をしますが、「家康に間違いはない」というような見方で、小説も描かれていました。しかし、その後少しずつ、やはり家康にも失敗はあったし、間違いも犯したというように、少しずつイメージが変わってきています。
――なるほど。一番大きく変わったのはどのあたりになりますか。
小和田 昔はどちらかというと、家康のリーダーシップが前面に出て、それでみんながついてきたという感じでした。しかし、最近はむしろ家康は家臣団によって動かされてきた、ないし家臣によって支えられていたというイメージが、かなり定着しています。
――なるほど。小和田先生は『徳川家康大全』(KKロングセラーズ)というご本で、昔と今の違い、最近分かってきている実像などについて、いろいろとお書きになっているので、本日はそのあたりをお聞きできればと思います。
小和田 分かりました。
「辛抱」のイメージとは異なる自由奔放な「人質」時代
――まずお聞きしたいのが、家康というと出てくる「遺訓」についてです。これは本物か偽物かという議論もありますが、「重き荷を負いて、辛抱、辛抱でやっていく」というイメージがあります。『徳川家康大全』を読むと、子どもの頃は人質として織田家に行って……。
小和田 最初、(織田家に)行って。
――そこから今川のほうに行くことになります。しかし、人質だからといって必ずしも抑圧された厳しい生活をしていたわけではなく、かなり奔放なところもあったようですね。
小和田 そうですね。今までは人質というとどうしても、なんとなく狭い部屋に閉じ込められ、監視の目が厳しい「忍耐」の少年時代という形が、家康のイメージをつくってきました。それが例の「人の一生は重き荷を負うて……」という言葉に象徴されていきます。しかし、私に言わせると、家康の子ども時代はむしろ奔放であり、結構、腕白ともいえる、自由気ままなものでした。 それは、いわゆる「人質」というイメージが実際と違っていたということです。
今川義元は、確かに家康(竹千代少年)を人質には取りましたが、それほどいじめてはいません。むしろ自分の息子、氏真(うじざね)の右腕にしようという意図で、きちんと教育を施しているので、今までの人質のイメージは一新する必要があります。だから、私はいろいろな本の中で今川「人質」時代のことを言うとき、人質のところに必ずカギ括弧を付けて「人質」としています。
これには、理由が3つほどあります。1つ目は、系図の上ですけれども、今川義元の妹の娘と結婚させていること。普通の人質の場合、一門の娘と結婚させるなどということは、まずあり得ません。これが1つ目です。
2つ目に、竹千代は元服して、最初は元信、その後、元康と名前を変えますが、この「元」という字は今川義元の「元」という字です。殿様の1字をもらえるなどということは、普通の人質にはない話ですから、これはやはり将来の重臣待遇といえます。これが2つ目です。
3つ目として、私が特に注目しているところですが、今川義元の軍師だった太原雪斎という和尚に竹千代の教育を任せています。これは普通ではあり得ません。
こういうことから、今川「人質」時代の家康は、結構、自由に、のびのびと今川全盛期の空気を吸って育ったということです。
石合戦や鷹狩りに見る少年時代の竹千代
小和田 そういった形で、静岡の各地にその頃のエピソードがいくつか残っています。
有名なものとして、例えば安倍川の河原で当時行われていた石合戦の話があります。まだ子どもだった竹千代が、お付きの人たちに「人数が多いほうと少ないほう、どちらが勝つか」と(聞いた)。お付きの人々が「人数の多いほうが有利だろう」と口をそろえる中、家康は「いや、人数が少ないほうが勝つぞ」と言った。少ないほうが結束力があるから勝ちそうだ、ということで、そう予言したら、その通りになったという話です。
もう一つ、私が面白いと思ったのは、静岡市内にある増善寺のエピソードです。増善寺という寺は今川義元の父親(今川氏親)の菩提寺です。そこへある時、竹千代少年がお墓参りに行くと、寺の境内に鳥がいっぱい飛んでいる。家康はまだ小さい頃から、結構、鷹狩りが好きでね。
――そうですね、後年も有名ですね。
小和田 年取ってからも鷹狩りが唯一の趣味でした。少年時代から鷹狩りが好きで、鳥が飛んでいるのを見て、「ここで鷹狩りをやりたい」と言い出した。そこへ増善寺の住職が出てきて、「寺は殺生禁断だから、鷹狩りは許さん」と叱られたというエピソードがあります。これなど、やはり自由奔放に生きていた証かと思います。
――そうですね。するとドラマで出てくる場合、(人質ということで)押し込められるとまではいかなくても、比較的悲劇性を帯びるところがありますが、それは必ずしも実像とはいえないということになるわけですね。
小和田 むしろ自由だったというのが実像だと思います。
「国衆」の連合体?~今川と織田のはざまの松平家の位置とは
――その前提で考えた場合、例えば松平(のちの徳川)というのは織田と今川の間に位置しているわけで、今川としてはそことどういう関係性を持つのかということも重要でしょう。また、戦国大名といった場合、いわゆる大名が強権的に全部命令するというより比較的連合体のようなイメージもあったわけですね。当時の国の在り方というのは、どういうイメージだったのでしょうか。
小和田 今川家臣団は、それぞれの地域に、昔の言葉では「国人」(最近では「国衆」)という土地の領主がいて、それらの領主の連合体になっていました。分かりやすくいってしまうと、かつてのソビエト連邦のようなものです。
――連邦制のようなものですか。
小和田 はい。連邦制のようなものの頂点に義元が立つという感じでした。だから、三河はちょうど今のウクライナのようなものです。西からは信長の父である織田信秀が力を持ってくるし、東からは義元が勢力を伸ばしていく。まさにそういうときに、竹千代の父親の松平広忠は、自分一人では自立できないので、誰かの傘の下に入るか、誰かと手を組むかと考えます。その時に選んだのが義元でした。そして、「息子を人質に出すから、助けてくれ」といって、義元の保護下に入ったわけです。
ただ、ご承知の通り、途中で竹千代は奪われ、織田方に連れていかれてしまいます。これも最近、新しい研究が出てきまして、途中で奪われたのではなく、信秀と広忠が戦って広忠が負けたので、自ら息子を織田方に人質に出したという史料も出てきました。しかし、それはあくまでも噂を書いたものなので、本当にそうだったのかというところは、もう少し研究が必要です。いずれにしても、従来の「途中で奪われて(拉致されて)行った」という説はこれから違ってくるかもしれません。
――ただ、これも先生の本に書かれていますが、今川家にも松平が必要な事情があり、人質交換のような形で、織田家から後年の家康を迎えるという段取りになるわけですね。
小和田 そうですね。これも雪斎の発案です。安城城という城に信秀の長男、信広がいました。雪斎がそこを攻めたのですが、「絶対に(信広を)殺すな。生捕りにしろ」と言っていた。なぜかというと、信広と織田方に取られていた竹千代を人質交換したいからです。これにより、竹千代は、今度は今川家の人質になるという段取りです。
――そういう経緯を考えると、今川からしても、岡崎あたりの地域を押さえるために必要な人材という認識をしているわけですね。
小和田 そうですね。ある程度、竹千代が成人して一人前になった段階でも、義元はまだ竹千代(その頃は元信あるいは元康ですが)を岡崎に戻そうとはしていません。やはり、今川家にとってあのあたりが非常に重要な土地だというイメージがあったのだと思います。
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