はじめに-渡辺守綱とはどんな人物だったのか
渡辺守綱(わたなべ・もりつな)は徳川十六神将の一人として活躍しました。槍の名手として有名で、「槍半蔵(やりはんぞう)」の異名を持ちます。
そんな守綱ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、向こう見ずな性格で、槍を振り回すが、普段はおしゃべり好き。三河の一向一揆では、一揆側について徳川家康に矛先を向ける。そんな人物(演:木村 昴)として描かれます。
目次
はじめに-渡辺守綱とはどんな人物だったのか
渡辺守綱が生きた時代
渡辺守綱の足跡と主な出来事
まとめ
渡辺守綱が生きた時代
渡辺守綱が生きた時代は、戦国時代の真っただ中であり、日本各地で戦国大名が勢力を拡大しようと、戦闘が頻発していました。守綱が生まれるころには家康が誕生する、種子島に鉄砲が伝来するなど、次の時代を形作る主な要因が揃い始めていたのです。
渡辺守綱の足跡と主な出来事
守綱は、天文11年(1542)に生まれ、元和6年(1620)に没しました。その生涯を、主な出来事とともに見ていきましょう。
生誕
守綱は、天文11年(1542)に三河国で生まれました。家は松平氏に代々仕える譜代の家臣。当初は「半蔵」という名前でした。16歳の時から、同じ年の家康に仕えるように。永禄元年(1558)に尾州石瀬の合戦に初陣しました。
永禄5年(1562)、三河国八幡で今川氏真の軍勢と戦い、先陣・酒井忠次(さかい・ただつぐ)が敗走した時、一人踏みとどまり、得意の槍を振るって追撃の敵兵と交戦。撤退の時間稼ぎをしました。これによって、自軍の撤退を成功に導き、「槍半蔵」の勇名を馳せたのです。
ちなみに、渡辺守綱の先祖には驚く人物がいます。平安時代中期の武将で、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治し、京都一条戻り橋では鬼の腕を切り落とした伝説を持つ、渡辺綱(わたなべ・つな)です。こうした伝説を持つ人物の子孫だと知ると、「槍半蔵」と呼ばれた守綱の強さも一層際立つように感じられます。
三河の一向一揆に加わる
永禄6年(1563)、三河で一向一揆が起こります。この時、熱心な一向宗の門徒であった守綱は、父とともに一揆側につき、家康に背くことに。松平氏の家臣には、一向宗の門徒が複数おり、一揆側につくのは守綱だけではなかったのです。
最終的に一揆は鎮圧。守綱は一時、家康の勘気(かんき)をこうむりましたが、赦免され、家督を継いでからは一途に家康に仕え励みました。その後の姉川、長篠、小牧・長久手、小田原などに参戦し、武功をあげています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、足軽100人を預けられ、下野国小山から関ヶ原へ向かいました。「槍半蔵」の異名を持つ守綱ですが、この時59歳まで足軽頭に過ぎなかったのです。その後、功績が評価され、守綱は家康から「南蛮胴具足」という南蛮風の鎧を授けられました。
【70歳を超える高齢で大坂の陣に出陣。次ページに続きます】