名古屋藩の付家老になる
慶長15年(1610年、一説には慶長18年とも言われる)、守綱は家康の命を受け、付家老(つけがろう。監督や補佐のために幕府から親藩、もしくは大名の本家から分家につかわされた家老職のこと)として、立藩したばかりの名古屋藩の若い徳川義直(尾張徳川家の祖)を補佐することになりました。武州・遠州・江州の知行に加え、三州・尾州にて1万石を下賜、これによって守綱は1万4千石を領すことに。
守綱は寺部村(豊田市寺部町)に陣屋を置きます。このころ、陣屋付近の矢作川は洪水がたびたび発生し、農民たちを苦しめていました。守綱は河原を検分し、農民の生活安定のために築堤工事に着手。280間(約500メートル)に及ぶ堤防を築きました。守綱自身も工事に参加し、堤防のおかげで農民の生活は安定するようになります。人々はこの堤防を「百人堤」と呼び、守綱に感謝しました。
大坂の陣に出陣
渡辺守綱は城主になった後、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」、元和元年(1615)の「大坂夏の陣」に、義直を補佐して従軍。すでに70歳を超える高齢だったにもかかわらず、槍を携えていたとも言われています。
そして、元和2年(1616)に家康が亡くなった4年後の元和6年(1620)、守綱は79歳で死去しました。
まとめ
槍の名手「槍半蔵」として名を馳せた「渡辺守綱」は、主君を守るためにたった一人で追手と交戦するなど、勇猛さは際立っていました。一方で、洪水に苦しむ農民を救うために、自ら堤防の工事に参加するなど、優しさも兼ねそなえていたのです。現代を生きる私たちが、守綱から学ぶことは多いのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)