はじめに-本多忠勝とはどんな人物だったのか
本多忠勝は三河(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれ、幼少期から徳川家康に仕え、家康の天下統一に貢献しました。数多くの戦場で功績を残し、徳川四天王の一人として活躍。忠勝の大きな特徴として、身に着けていた兜「鹿角脇立兜(かづのわきたてかぶと)」や名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」は有名ですが、実際の忠勝はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、男気があり、義を重んじ、筋の通らないことは嫌いな人物(演:山田裕貴)として描かれます。
目次
はじめに-本多忠勝とはどんな人物だったのか
本多忠勝が生きた時代
本多忠勝の足跡と主な出来事
まとめ
本多忠勝が生きた時代
本多忠勝が生まれた時代は、戦国時代の真っただ中。日本各地で戦国大名による勢力争いはさらに激化していました。「下剋上」という言葉に象徴されるように、下の者が上の権力者を倒し、既存の秩序が崩壊した時代です。
依然として、全国が統一される兆しはなかったものの、忠勝が生まれる少し前には織田信長が誕生するなど、その後の統一の主役たちが揃い始めていたのです。
本多忠勝の足跡と主な出来事
本多忠勝は、天文17年(1548)に生まれ、慶長15年(1610)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていくとしましょう。
誕生から初陣まで
忠勝は天文17年(1548)、松平家(徳川本家)発祥のころからの譜代である本多氏で、本多忠高の長男として生まれました。通称は、平八郎。父の忠高は、忠勝が2歳の時に討ち死にしてしまいます。そのため、忠勝は叔父の本多忠真(ただざね)に養育されることになりました。忠真は厳しかったそうです。
忠勝の初陣は13歳で元服の時、桶狭間の合戦で、大高(おおたか)城に兵糧入れをすることでした。この時、既に忠勝は兵糧を守る部隊の足軽大将になっていたという記録もあり、能力の高さは際立っていたようです。忠勝の武将としてのキャリアは、ここから始まったのでした。
【57度もの戦いに参加しながら、一度も手傷を受けることがなかった。次ページに続きます】