文/砂原浩太朗(小説家)
3代将軍・源実朝暗殺の謎(前編) はこちら
暗殺事件の経緯
実朝暗殺がおこなわれた1219(建保7)年1月27日は、夜から雪となり、60センチ以上も積もったという。実朝は、このなかを鶴岡八幡宮へ向かった。右大臣就任を賀しての参詣である。
事件の経緯は史料によって差異があり、どの書物に拠るかで大きく変わってくる。この点についてはのちほど黒幕説のくだりで詳述するが、間違いないのは「参拝が終わったあと、甥である公暁が実朝を討った。ほどなく彼自身も、後ろ盾だった有力御家人・三浦義村に討ち取られてしまう」ということ。ちなみに、この人物は長らく「くぎょう」と呼びならわされてきたが、近年では「こうぎょう」という読み方が勢いを得ている。
公暁は実朝の兄・頼家の子であり、このとき鶴岡八幡宮の別当を務めていた。参拝のことはとうぜん承知していたろうから、凶刃を振るうには最適なポジションだったといえる。
ところで、実朝を狙う公暁が大銀杏の陰に隠れていたという伝承は江戸時代になってから生まれたもの。この事件を描いた拙作「実朝の猫」(『読んで旅する鎌倉時代』講談社文庫所収)では、「まだそれほど大きくはない」銀杏としたが、これは伝説に目配りした一種の遊びである。2010年に倒壊した折、樹齢1000年とされていた大銀杏だから、事件当時すでに生えていたとも考えられる。が、樹齢についてはもっと短いとする説もあるうえ、よほどの巨木でもないかぎり記録として残るのはむずかしい。公暁がじっさい銀杏に隠れたかどうかは不明というほかない。
黒幕説の検証~北条義時の場合
実朝暗殺の背後に黒幕がいたのではないかという推測は古くからなされている。おもな容疑者はふたりいて、ひとりは幕府執権・北条義時(1163~1224)。まずはこちらから検証することにしよう。
義時黒幕説の発端は、当日、彼の振る舞いに不審が見られることである。実朝にしたがって八幡宮へ着いたとき、にわかに体調をくずした。務めるはずだった御剣の役は、都下りの近臣・源仲章にゆずって自宅へ戻る。仲章は結局、義時と間違われ、実朝とおなじく凶刃にかかって落命した。
からくも命拾いをした構図だが、あまりに出来すぎており、背後に陰謀があったのではないかと疑われたわけである。たしかに上述の状況はそう見えて仕方ないが、これは幕府の公式記録「吾妻鏡」によるもの。正史なら信憑性が高いと思いがちだが、同書は後代に編纂されたものであり、北条氏に都合のよいよう記述が改竄された可能性も指摘されている。ちなみに、実朝が凶事を予感して詠んだとされる「出でていなば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな」(私が出かけたきり帰らず、あるじのいない家となっても、梅よ春を忘れずに咲いてくれ)も同書にあるものだが、これは後代の偽作という説が有力である。
一方、同時代に記された歴史書「愚管抄」によれば、このおり義時は中門(仁王門)に留まるよう実朝から命じられ、そもそも本宮への参拝に随行していない。ともに参拝したのは、都から来た公卿などが主である。「急病であやういところを逃れた」という状況自体がなかったわけだ。「吾妻鏡」は、義時が助かったのを神仏の加護によると記しており、そうしたストーリーを誇示するための捏造と思われる。また、義時は実朝と歩調を合わせて親王将軍の実現に尽力しており、暗殺によるメリットがとぼしいのも事実である。
黒幕説の検証~三浦義村の場合
もうひとりの容疑者は、有力御家人の三浦義村(?~1239)。北条に次ぐ実力者であり、公暁の乳母夫(めのと。妻が乳母)だった。実朝と義時をいっきに葬り、公暁を擁立する計画だったが、義時が命拾いしたため方針を転換、謀叛人として公暁を討ち取り、保身を図ったという。この説は歴史小説の大先達である永井路子によって唱えられたもので、学界からもかなりの支持をあつめた。
が、前項で述べたように、義時があやういところで命拾いをしたというストーリー自体に疑問符がつく。三浦氏は和田合戦(1213)でも、同族の和田義盛を裏切って北条方についている。ここへ来て大博打に出るだけの動機はまず見出だせない。事件後、公暁が三浦に支援を乞うたのは事実だが、義村はこのときもただちに義時と連絡を取り、公暁を討ち取っている。そこに陰謀の跡を見いだすのは難しい。
暗殺犯の真意
では、だれが黒幕だったのかと思いたくなるが、現状では公暁の単独犯行説が濃厚である。実朝を討った折、彼は「親(頼家)の仇はこうして討つのだ」と宣言している。実朝が頼家の死に関与した痕跡はないが、公暁はそれを大義名分として叔父を討ち取り、みずから将軍位に就こうと考えたのだろう。あるいは、ほんとうに仇と思いこんでいたのかもしれない。
筆者も小説家であるから黒幕説に惹かれるし、暗殺犯がそのまま将軍位に就けると考えるのはあまりに短絡と思えるが、前編で述べたように、このころ皇族将軍という構想が実現に近づいている。これがかたちになっては、公暁が将軍となる目はなくなる。彼にとって、勝負に出るとしたらこのタイミングしかなかったのかもしれない。この見方には、じゅうぶんな説得力があるように感じられる。
後鳥羽上皇と良好な関係を築いていた実朝の死によって、朝幕間はにわかに緊迫の様相を帯びる。結局、皇族将軍は実現せず、頼朝と血縁関係のあった九条家から4代将軍が迎えられた。上皇方が挙兵し、世にいう承久の乱が起こったのは、実朝の死からわずか2年後である。これに勝利したことで幕府の権威は高まり、武家による政治はあらたな段階へ進んでゆく。実朝暗殺は間違いなく、歴史の転換点だったのである。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。
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