多くのテレビドラマに出演し、今も一線で活躍している市毛良枝さんのインタビュー。2022年9月末には主演として久しぶりに舞台を踏む。前編では舞台や趣味について伺った。後編では母の介護を中心に、そのアクティブさの秘訣についてお話しいただいた。
【前編はこちら】
先が見えない介護、深く呼吸をすることの大切さに気付く
──市毛さんのお母様は、2004年、2005年に脳梗塞(こうそく)を発症。その後、2016年に100歳でお亡くなりになりました。その介護の日々についてお聞かせください。
私の介護が悲劇にならなかったのは、ボイストレーニング、社交ダンス、マッサージのトライアングルというローテーションがあったことは、前回、お話しました。
歌ったり体を動かしたりすることはリフレッシュになりますし、そこで出会った人と、介護以外のおしゃべりをすることで、心はかなり軽くなりました。
介護をしていると、趣味や仕事の時間が制限されます。そして、相手に対して「あなたのせいで私はこんなに大変なのに」と恨み言を言いたくなるときもあります。でもそれを本人には決して言えません。
でも、母と面識がないダンスの仲間なら、介護の不満や母のことを話せます。ワルツを踊りながら、「もう、うちの母、嫌になっちゃうのよ」とグチをこぼしたこともありました。「ホントに介護は大変だよね」など言われると、それまでの恨みのような気持ちが消えるんですね。仲間との交流で心身が健康になると、体も元に戻ります。「自分の足の上に体が乗っかっている」という、介護以前の感覚が戻ってきました。
体がちゃんと足の上に乗ると、深く息が吸えるようになるんです。そうすると、それまで「一人娘だから頑張らなくては」と思っていた気持ちがゆるんできて、いろんな人に助けを求められるようになりました。
私のように仕事の時間が不規則で、母を見てくれる人がいないときに、多くの人に助けていただきました。これにより、お互いに支え合う人間関係ができたのです。介護は家の中にまで入るので、友達というよりは、親戚のようなお付き合いになっていきます。母が永眠してから5年が経つのですが、母の介護を一緒にしてくれた仲間とは今も交流を続けています。一緒にお墓参りに行ったり、遊びに行ったり……このつながりは、母が残してくれた財産だと感謝しています。
──失うものもあれば、得るものもある。
物事は表裏一体です。介護によって、自分の時間が制限されて、やりたいことができなくなりましたが、介護があったから、親しい人間関係ができました。
母が永眠したとき、「母らしい人生を全うさせた」という思いがあり、意外に悲しみはなかったのです。しかし、それから5年経った今、「ああすればよかった」「こう言えばよかった」と後悔の気持ちが湧くことはたくさんあります。
──親の老いを受け入れ、親を送ることは、子供にとっての大きな仕事だと感じています。
母は手仕事が好きだったのに、病気のせいで針が持てなくなりました。また、音楽鑑賞や旅行も好きだったのに、車いす生活になり、ひとりでは行けなくなってしまった。できなくなることが多くなるたびに、気持ちが削がれていくことがわかるんですね。
そこで、私の出番です。
母は95歳から3回海外旅行に行っています。1回目はアメリカのオレゴン州、2回目はハワイ、3回目は韓国です。
母は「旅行に行きたい」と思っても、はっきりとは言いませんでした。日本的な美徳を持つ昔の人の常で、私に対して「そろそろ(旅行をするのも)いいわね」というふうに、やんわりと圧力をかけてくる。私はそれを察して旅行の準備をします。
車いすの点検をし、普通の食事が食べられないから粉末状のとろみ剤やパック入りの介護食を日程分用意。それには海外の空港で質問されたときのために、お医者さんに英語で内容説明書を書いてもらいました。だって、海外の人にとっては、なんだかわからない白い粉を大量に持っていたら怪しいでしょ(笑)。
加えて、渡航先で入院したり亡くなってしまったりした場合に、どのような手続きを取ればいいかも調べていきました。備えあれば憂いなしですから、入念に準備をしました。
そうして行った旅行で、母は行くたびに刺激を受けていることがわかりました。初日、次の日、その翌日と、日を追うごとに元気になっていくんです。目もキラキラしてきて、私が「海外旅行は好き?」と聞くと「うん」と答えてくれました。
日本にいるときは、母は「はい・いいえ」でしかコミュニケーションをしなかったのに、旅先で過ごすうちに、文章のように組み立てて感情を伝えてくるようになったのです。これは帰国してもしばらく続きました。
老いを重ねていても、感性を刺激することは大切なんだと思いました。母の笑顔が見たくて、旅行に行っていました。
【90歳までは自力で何とかなる、その先の人生で大切なこととは……次のページに続きます】