文/池上信次
2021年2月の急逝からちょうど1年、チック・コリアがジャズの歴史に大きな足跡を残していたことをあらためて感じます。チック・コリアは1960年代初頭に活動を始めていますので、活動期間は約60年にも及びます。その間、チックの動向はつねにジャズ・ファンの注目の的でした。その理由は、演奏技術はもちろんですが、飛び抜けた独自性と発想といえるでしょう。中でも特筆すべきは、「歌」を自身の音楽表現のひとつとして取り入れたというところです。もちろんジャズ・ヴォーカルはジャズの発祥時からあったものですが、チックの発想は「ジャズを歌う」というヴォーカリストとは異なります。
チックは1968年からマイルス・デイヴィスのグループに参加しました。そこではノイジーなエレクトリック・ピアノでソロをとり、70年の脱退・独立後はフリー・ジャズ・グループの「サークル」を結成して活動しました。まあ、その当時は「過激なピアニスト」というイメージだったわけですね。そしてチックは72年に新たなグループ、リターン・トゥ・フォーエヴァー(以下RTF)を結成します。そこではヴォーカリストのフローラ・プリムをフィーチャーし、歌詞付きの「歌」を演奏する、ポップスともいえる聞きやすいジャズを展開しました。まさに「過激」とは正反対。突然ともいえる変身でした。
RTF結成の理由は、「聴衆とコミュニケートできる音楽を作る」ことだったといいます。そしてその目論見は見事に当たり、ファースト・アルバム『リターン・トゥ・フォーエヴァー』は世界的な大ヒットとなりました。今ではヴォーカリストではないジャズ・ミュージシャンが、自身の音楽としてヴォーカリストをフィーチャーすることは当たり前のようになっていますが、当時は、またその後長くも、ヴォーカリストをサイドマンにしたジャズ・グループというのは、RTFのほかにはほとんどなかったのではないでしょうか。RTFの出現は、じつに画期的な出来事だったといえるでしょう。
そしてもっと注目したいのが、そこで作られた歌が名曲ぞろいだったこと。たんに歌を入れたから受けたという単純なことでないことは、それらが現在もスタンダードとして多くのジャズ・ミュージシャンによって演奏されていることからもわかります。『リターン・トゥ・フォーエヴァー』、そして73年発表の次作『ライト・アズ・ア・フェザー』に収録されたチック作曲の歌詞付きの「歌」は、「ホワット・ゲーム・シャル・ウィ・プレイ・トゥデイ」「サムタイム・アゴー」「ユーア・エヴリシング」「500マイルズ・ハイ」の4曲。インストでも多く演奏されているのもすごいところですね(なお、『ライト・アズ・ア・フェザー』の同名タイトル曲はスタンリー・クラーク作曲)。
しかし、その後チックは同じ「リターン・トゥ・フォーエヴァー」というグループ名のまま、いきなりメンバー・チェンジしてインストのフュージョンに方向転換を図り、「歌」からは離れてしまいます。でもその「歌」は、グループを離れたフローラ・プリムが受け継ぎました。また、チックもそれをバックアップしていきます。フローラはソロ・アルバムで「500マイルズ・ハイ」「サムタイム・アゴー」を取り上げたほか、チックの書き下ろし「オープン・ユア・アイズ・ユー・キャン・フライ」、チックの既成のインスト曲に歌詞を付けた「タイムズ・ライ」や「クリスタル・サイレンス」(『パーペチュアル・エモーション』2000年/ナラダジャズ)といったリターン・トゥ・フォーエヴァーの「名曲」を歌い続けました。
チックは、RTFのあとは(76年RTF解散直前にヴォーカルのゲイル・モランを入れた特別企画はありましたが)、ヴォーカルをフィーチャーしたグループは持ちませんでした。でもチックが「歌」から離れてしまったかというと、さにあらず。2009年、マンハッタン・トランスファーが『ザ・チック・コリア・ソングブック』(4Q)を制作する際、チックは「歌」の新曲「フリー・サンバ」を書き下ろしました。しかも自身で歌詞まで書いて! 「歌」は、RTF以来、ずっとチックの大切なものだったのですね。
文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『ダン・ウーレット著 丸山京子訳/「最高の音」を探して ロン・カーターのジャズと人生』『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(ともにシンコーミュージック・エンタテイメント)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。