はじめに-三善康信とはどんな人物だったのか
三善康信(みよしやすのぶ)は、鎌倉幕府における問注所の初代執事を務めた人物です。母が源頼朝の乳母の妹であった関係から、伊豆に配流中の頼朝に京都の状況を報告します。そののち、鎌倉に招かれて問注所執事となりました。
2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、“十三人”の一人で、義時たちの運命を変える慌て者(演:小林隆)として描かれます。
目次
はじめにー三善康信とはどんな人物だったのか
三善康信が生きた時代
三善康信の足跡と主な出来事
まとめ
三善康信が生きた時代
三善康信が生きた平安末期から鎌倉初期は、源平合戦の勃発からその終結、そして鎌倉幕府の成立など、時代が大きく動いた時代でした。その中で、乳母との関係から源頼朝に仕え、幕府成立後も重要な役職に就くことで源氏を支えました。
三善康信の足跡と主な出来事
三善康信は、保延6年(1140)に生まれ、承久3年(1221)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
京の下級官人の家に生まれる
三善康信は、保延6年(1140)に京の下級官人・三善家に生まれます。三善家は、明法(みょうぼう)・算道、すなわち法律の知識・算術の知識をもって朝廷に仕える中流貴族でした。応保2年(1162)には、前太政大臣・藤原忠通(ただみち)の娘・育子(=二条天皇后)の立后に際し、后妃に関わる事務などを扱う中宮少属(しょうさかん)に任じられます。
これ以前にも太政官の史(=中央の最高行政機関の役人)に補任されており、早くから朝廷内で能吏と認められていたと考えられています。しかし、母の姉が源頼朝の乳母であったためか平家の一族が勢力を伸ばしてくる時期には昇進はみられず、不遇な立場にあったと推測されています。
頼朝に京の情勢を伝える
その一方で、康信は母方の関係から頼朝と親交を深めます。というのも、母が源頼朝の乳母の妹であり、当時の武士と乳母との関係は非常に強いものだったからです。永暦元年(1160)から伊豆に配流されていた頼朝に、康信は月に3回の割合で京都の動静を知らせ続けたといわれています。
治承4年(1180)5月には、後白河上皇の皇子・以仁王(もちひとおう)と源頼政が平氏打倒をスローガンに挙兵しました。その直後、康信は源氏追討の危機をいち早く頼朝に知らせ、彼の挙兵の契機をつくりました。
出家後、幕府の政治の担い手となる
養和元年(1181)ごろ、出家し、法名は善信(ぜんしん)と称します。その後の元暦元年(1184)、頼朝の請いにより鎌倉に下向し、大江広元(おおのえひろもと) 、中原親能(なかはらちかよし)などとともに京下りの文官として頼朝の側近にあり、幕府の政治機構の整備に貢献しました。
この後、康信は頼朝の側近として幕府の重要な政策決定に参画しました。京都の事情に詳しいことから、特に幕府の朝廷対策において重きをなしたとされています。
問注所の初代執事となる
同年10月、頼朝の御所内に問注所(もんちゅうじょ)が置かれ、建久2年(1191)正月には、政所・侍所・問注所の幕府三機関が正式に整備されます。そこで問注所の初代執事に任じられたのが、朝廷の役人としての経験を有し、事務能力に長じた善信でした。
問注所とは、主に民事の訴訟や裁判を司る役所のことです。執事のもとに寄人(よりゅうど)と呼ばれる職員がおり、関東の訴訟一般を取り扱いました。訴訟の審理や文書作成などを行ったとされています。
善信の所領については、その子孫の所領からみると、全国にかなりの数の地頭職を所持していたと思われますが、その全容は未だ不明です。現在確実に善信の所領とされるのは、高野山領備後国太田荘(=現在の広島県世羅町一帯)です。彼は、建久7年(1196)に太田荘の地頭に補任されます。
幕府の長老として力を持つ
正治元年(1199)、頼朝が死去すると、大江広元とともに宿老(しゅくろう)の立場から幕府体制の安定化に努力し、北条氏の執権政治確立に大きく貢献します。また、頼家(よりいえ)が将軍に就くと、幕府郭内から善信宅へ移されていた問注所を郭外に新造しましたが、その執事職は引き続き善信の手にあり、彼は幕府の長老として力を持っていました。
さらに、18歳の青年である二代目将軍・頼家に幕府の独裁的権限を任せることに不安を感じた幕府の宿老たちは、将軍の訴訟の専断を停止し、宿老十三人の合議体制をつくり出します。善信もまた、その有力メンバーとして加わったのでした。また、元久2年(1205)の畠山重忠(しげただ)の謀叛事件では、大江広元と相談し、幕府建物の警護の配置を決めるなど幕府長老として活躍しました。
重臣としての使命感
承元2年(1208)正月、鎌倉にある康信の名越亭(なごえてい)が焼失する事件が起こりました。この家の裏には文庫があり、将軍家の文籍・雑務文書や、代々の文書が納められていましたが、ことごとく焼失し、善信の落胆ぶりは大変なものであったとされています。
その後、三代将軍・実朝(さねとも)の下でも問注所執事として重きをなしますが、北条氏の執権体制が強化される中で、中枢での活躍の場面が少なくなっていきます。善信が最後に重要な役割を演じたのは承久3年(1221)の「承久の乱」です。病気を押して出仕した彼は、即時出撃を主張し、幕府体制を固めることに貢献しました。
病によりこの世を去る
同年8月、病が重くなるに及び問注所執事の職を子息・康俊(やすとし)に譲り、同年8月9日に没します。82歳という年齢でありながら、亡くなるわずか2日前まで、問注所執事の任にあったと言われています。
康信以後、問注所執事は三善氏の子孫である町野氏・太田氏が、執事を世襲する形で独占、継承することになります。
まとめ
源頼朝・頼家・実朝の三代の将軍にわたって、幕府の政務に参与した三善康信。下級貴族の出身でありながら、源氏将軍家の重臣にまで上り詰めました。その背景には、彼の法律・算術の知識や京での人脈・実務経験、そして文官としての類まれなる才能があったといえるのではないでしょうか。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)