渋沢栄一氏の名前を聞いて、どのような功績を思い浮かべますか? 銀行制度や数多の企業の設立など、経済界での活躍の印象が強い栄一氏ですが、日本の国際的な立ち位置を顧慮し、外交に尽力した人物でもあります。

一人の実業家でありながらその枠に留まらない、彼の外交活動とはどのようなものだったのでしょうか?

この連載では「曾孫が語る渋沢栄一の真実」と題し、渋沢雅英先生の全7回のインタビュー動画を交え、深掘りしていきます。第6回は、「渋沢栄一が取り組んだ日米親善事業」について、渋沢雅英先生が渋沢栄一氏の軌跡を辿りながら解説します。

※動画は、オンラインの教養講座「テンミニッツTV」(https://10mtv.jp)からの提供です。

渋沢雅英(しぶさわまさひで)
渋沢栄一曾孫/公益財団法人渋沢栄一記念財団相談役。
1950年、東京大学農学部卒業。
1964年、(財)MRAハウス代表理事長に就任。
1970年よりイースト・ウエスト・セミナー代表理事を務めた。
日本外国語研究所代表理事でもある。
1982~84年まで英国王立国際問題研究所客員研究員。
1985~86年、1989~90年、アラスカ大学客員教授。
1992~93年、ポートランド州立大学客員教授、
1994年~2003年まで学校法人東京女学館理事長・館長を務めた。
1997年~2020年まで公益財団法人渋沢栄一記念財団理事長。
主な著書に『父・渋沢敬三』(実業之日本社、1950年)、『日本を見つめる東南アジア』(編著、サイマル出版会、1976年)、『太平洋アジア――危険と希望』(サイマル出版会、1991年)、『【復刻版】太平洋にかける橋―渋沢栄一の生涯―』(不二出版、2017年)がある。

日本とアメリカにかける橋

渋沢栄一氏は、日米親善事業に尽力した人物でもあります。当時、多くの日本人が日本の正確な国際的立場をはかり損ねている中で、栄一氏は客観的な理解ができる人物であった、と雅英先生は語ります。「世界の中の日本」の位置を正確に捉え、国民外交に力を注いだのです。

日本の国力の高まりから日米関係がギクシャクしていたにもかかわらず、多くのアメリカの財界人が栄一氏に心を開きました。その理由を雅英先生は、「彼の道徳的、精神的なものがアメリカ人と重なったからではないか」と語ります。あくまで民間の人間として外交を行い、彼らと深いつながりを作っていきました。

しかし、時代の波は日米間に亀裂を生み、やがて排日移民法が成立していくこととなります。栄一氏は、この法律に対して悔し涙を流しながらも、アメリカと良好な関係を築いていくことに期待を持ち続けました。

渋沢雅英先生

●70歳を過ぎても向き合い続けた日米関係

生涯のうちに4回もの渡米経験がある栄一氏は、70歳を過ぎてからも日米親善のために使命感を燃やしました。両国の子供達の友情を育むために行われた、人形の交換事業も彼の功績の一つです。しかし思いに反して、米国内の「日本脅威論」の勢いは増していきます。焚きつけられた世論の排日感情は、財政外交の手が届く規模を超え、広がっていきました。

また、日本国内では社会的不安の高まりから財界人の暗殺が多発しました。しかしその中でも、栄一氏は感情的にならず、全体を見据えながら生きていました。その生涯を終えた時には、たくさんの人が葬列を見送ったといいます。このことは、彼がいかに人望を集めていたかを物語っています。

日本とアメリカにかける橋 講義録全文

渋沢雅英先生の講義録を以下に全文掲載して、ご紹介いたします。

●世界の中の小さな日本を理解していた渋沢栄一

――渋沢栄一さんの場合は、雅英先生が書かれた『太平洋にかける橋』のご本のちょうどタイトル通りで、いかに日米関係をよくしていくかということに、国民の立場で努力をされました。政府の外交ではなく、国民の外交ということで努力をしていった過程を、ここでは本当に詳細に描いていらっしゃいます。

私も拝読しましたが、例えばなぜアメリカで「排日運動(日本人を排斥していく動き)」が起きたのか。半ばは「日本はすごい」と言う人たちもいれば、「日本はちょっと危ない」とか「武力に訴えてくるのではないか」ということで脅威論を煽る人も出てくる。そういうアメリカの国内事情を非常に克明にお書きになっていますし、それに対して栄一さんがどういう努力をしたのかというのも非常に克明にお書きになっています。
 
栄一さんがお亡くなりになったのが昭和 6(1931)年、ちょうど満州事変の年ですね。

雅英先生 その年ですね。

――結果からすると、お亡くなりになって 10 年で日米戦争が始まってしまうのですが、その過程で「日本とアメリカにかける橋」としてどのような努力をされたのか、そのあたりをぜひお聞きしたいと思います。

雅英先生 栄一という人は、「世界の中の日本」の立場というものを割と客観的に感じていたと思います。日本人はやはり小さい国に育っていますので、なかなかそういう感じではない。「日本はえらいんだ」と言ってみたり、「いや、駄目なんだ」とがっかりしてみたりと、落差があります。
 
その点、栄一は、「アメリカと中国の間に立っている小さい国」という自覚があった。今でもそうだけれども、当時は特にそうだった。そういう日本の立場に対する客観的な理解が、栄一は非常に深かったのではないかと思います。

●アメリカの財界人に胸襟を開かせた「国民外交」

雅英先生 アメリカは、最初は日本をとてもかわいがってくれるのだけれど、あるときからだんだん日本が威張りだしたこともあって、ギクシャクしていきます。そのようなときでしたが、栄一はアメリカ人の間に非常に人気があるのですね。「論語と算盤」のせいかどうか知らないけど、栄一の雰囲気の中には、非常にアメリカ人が大事にしたがるような道徳的といいますか、精神性のようなものがあると思われたのではないでしょうか。
 
もちろん栄一は、政府の外交に口を出したりしない。これはもう全ての点について、民間の人間だと思い込んでやっていますから、外務省に楯を突いたりすることはなかったです。そして、アメリカの本当に優秀な人たちと仲良くしようとした。だから、この家(飛鳥山渋沢邸)などもそういうことに使いたいわけで、この庭もずいぶん使われたと思います。ここに来た人は、「1000 人の外国人がいた」という話です。

――1000 人も、ですか。

雅英先生 ということが栄一に関する資料には書いてあります。それも財界の人が多いですね。もちろん国務長官のようにいろいろな役職の人も来るけれども、栄一という人は、財界人たちと仲良くなるのです。だから向こうも、「栄一がやるなら一緒にやろう」みたいな心意気ができるところがあったのですね。

栄一は英語をよくしゃべらなかったと思うし、フランス語もしゃべったかどうかよく分からないけれども、それがアメリカの一流の財界人と非常に深いつながりをつくるのですね。
 
でも、向こうもアメリカの外交政策に干渉するわけでなし、こっちもするわけでもない。その後、(国同士は)だんだん、だんだんうまくいかなくなってしまう。

●排日移民法と「悔し涙演説」

雅英先生 「排日移民法」というものができたのが一つのターニングポイントになって、日米関係はあのときに終わったと言ってもいいのかもしれないと思います。
 
栄一は非常に悲しむわけですが、悲しんでも、他の人が怒ったり、わめいたりするよりもう少し冷静に客観的に、「こうなったら、できることをする他ない」と思う。諦めが早いのですね。そういうところは、なかなかビューティフルだと私は思うのだけれど。

――ちょうど今日お持ちしたのですが、『青淵先生演説撰集』というかなり前の本(1937 年刊行)で、渋沢栄一の演説を集めた中に、排日移民法ができた時の演説も載っていました。

これなどを読みますと、日米関係の経緯が諄々と説かれ、小村寿太郎外務大臣が何をした、かにをした、といろいろな方の名前を挙げて、こんなことがあったと紹介した後で、「しかし、結果として排日移民法ができてしまった。自分としてはいろいろ骨を折ってきた甲斐もなくて、あまりに馬鹿らしく思われて、社会がいやになるぐらいになって、神も仏もないのかというような愚痴さえ出したくなる」と言われています。
 
さらに「70年前、まさに若かった頃にアメリカ排斥をした当時の考えを思い続けていたほうがよかったかというような考えを起こさざるを得ないのであります」と言いながらよく悔し涙を流された。そのために「悔し涙演説」という言われ方もされていたそうです。
 
でも、最後には「しかし、まだアメリカはこの中できちんとやってくれるんじゃないか」ということを述べ、期待は持ち続けていた、というところですね。

雅英先生 移民法が通ったときに、例えば金子堅太郎さんや新渡戸稲造さんのような当時の親米派の人たちは、非常に悲憤慷慨してしまいました。「あの法律があるうちは、もう俺はアメリカに行かない」とかって張り切ったりするわけです。日本人はそういうことをよく言うタイプの国民ですけれどもね。

――やはり当時の日本人からすると、人種差別的にやられたために、プライドが根本的に傷つけられた、と。

雅英先生 そうですね。今のわれわれは、そんなことで傷つけられなくてもいいではないかと思いますけど、あの頃はとっても大変なことだったのだと思います。

――西洋社会は人種差別がベースですから。

雅英先生 ただ、そういう人たちがいっぱいいる中で、栄一は、「それはそうだ、彼らはよくない。しかし、われわれはできることをする他ない」という言い方をするわけです。そこがいいところなんだと思います。

――やはり今まで積み重ねてきたいろいろな人の顔も脳裏に浮かぶでしょうし、「あいつ、いい奴だったなあ」とか、そういうのも当然あるでしょうから。

雅英先生 あるでしょうね。それはそうだと思いますね。

●70歳を過ぎて日米親善のために燃やした使命感

――当時のあの年の人にしては、と言っては失礼ながら、非常にたくさんアメリカに行かれていますよね。

雅英先生 4 回ほど行って、大統領にも 4 人会っています。お友だちの数は、すごいと思いますね。

――今と違って、飛行機で行って 2、3 泊で帰ってくるという話ではなく、行ったらしばらく滞在して、あちこち回るということですからね。

雅英先生 70 歳を過ぎてから、「そっちのほうが自分の仕事だ」と思ったんでしょうね。いわゆる財界の仕事は頼まれれば何でもやりますけど、本当のところは「日米親善」ではないけれども、もうちょっと深刻なことを考えていたのでしょうね。

――雅英先生がお書きになっている中で非常に印象深かったのが、一番最初にアメリカに行かれ、その後ヨーロッパに行かれる中でお書きになっていたことです。
 
アメリカではいろいろな人と会って、歓待された。当時アメリカは本当に上り調子の国ですから、非常に進取の気性もある。「日本ってどんな国だ」「どういうことができるんだ」と、非常に前のめりにいろいろなことをやってくれた。
 
それに対してイギリスに行くと、日英同盟ができたばかりにもかかわらず、保守的すぎて、「案外これはアメリカのほうが伸びていくんじゃないか」という感慨を抱いた、というようなことでした。

雅英先生 アメリカとの関係は、それだから非常に大事だと思ったのでしょうね。でも、英国からお金を借りて日露戦争をやったりもしているのだから、両面あったと思います。

●相互理解の限界と「日本脅威論」の趨勢

――中にお書きになっていた分析も面白くて、「イギリスはイギリスで、投資するところが結構ある。今上り調子のアメリカでは、お金がむしろ国内で回ってしまうから、外債を募集するならやはりイギリスをベースにするのがいい」と。そのへんは客観的に見ておられる感じですよね。

雅英先生 例えばアメリカが、中国に対して何かしようというときに、どんどん事を進めます。日本が「一緒にやりましょう」と言っても、アメリカは「だって日本は中国に嫌われているから、そんな国と一緒にやるわけにいかない」というようなことを思うわけです。
 
その気持ちも分かりつつ、「アメリカだけではうまくいきませんよ」と言おうとするのです。だけど、なかなか分かってもらえない。そういう悲しさがあったでしょうね。

――あと、私がこのご本で非常に印象深かったのが、どうやって日本人排斥のアメリカの世論がつくられていくか、非常に詳細にお書きになっていた点です。どちらかというと財界人ではなく、大物の言論人に近い方(作家や、毛色の変わった軍事戦略家など)が、人種差別的なことを言いながら「日本脅威論」のようなものをガンガンぶっていた、と。

雅英先生 彼らが言っているのは、ずいぶん極端な議論です。そういう人が力を得るのがアメリカの良くない部分だったと思うし、栄一はそうなってもらいたくないと思って努力するのだけれども、他人の国のことだからそうも言っていられないということなんですかね。

――排日的な、日本とアメリカが戦う小説も読んだ形跡がある、とも書いてありました。

雅英先生 はい。この部屋で読んでいたかもしれないですね。

――そういうものを読みながらも、世論が動いていってしまうと、財界外交、国民外交では、そこに手を伸ばすのはなかなか難しいと思います。

●葬列を見送った人々の多さから分かる渋沢栄一の人気

雅英先生 そういうときに、栄一はあまり感情的にならないで、いつも全体を見据えながら生きていた。あの頃、財界人で偉かった人がずいぶん殺されているでしょう。

――そうですね。暗殺が日本国内で多発しました。

雅英先生 安田善次郎(1921 年、自宅で暗殺)も殺されて、井上準之助(1932 年、血盟団事件で暗殺)も殺されて、高橋是清(1936 年、2.26 事件で暗殺)もそうだった。栄一だけは殺されないで、「畳の上で死ぬ」という言い方は古いけれども、ベッドの上で死んだのだと思います。

そして、ものすごい人気があってね。お葬式が、私の栄一に関する最初の体験ですけれども、ここから青山まで遺体が行くわけです。そうするとたくさんの学生さんなどがワッと集まって、見送ってくださるわけです。

――沿道に、ですか。それは覚えていらっしゃるわけですね。

雅英先生 ええ。私もある程度覚えていまして、「偉い人だったんだな」という感じはしましたけれど、そのときは分かりませんでした。

――6 歳でいらっしゃいますからね。

雅英先生 はい。

――そういう中で、人形の交換事業をされたのが、たぶん最後のほうの業績になりますね。日本でも「青い目をしたお人形は」なんて歌があったりしました。

雅英先生 はい。あれで日米関係が解決できるとは本人も思ってはいなかったと思うけれども、やることはやりましょうという風のことでしょうね。

――やはり「どういう芽を育てるか」というところだったのでしょうね。

雅英先生 そうですよね。あるところの芽はなんでも育てようということで、その点は、積極的な人間ですね。

***

政治的・文化的に広い視野から日本の将来を見据え、外交に取り組んだ栄一氏。実業家の枠に留まらないその熱意からは、彼の行動に通底する「日本全体」への意識が感じられます。外交問題は今日にも続く重要な課題です。その課題に私達一人ひとりがどのような姿勢で取り組むべきかを、栄一氏から学ぶことができるのではないでしょうか。

協力・動画提供/テンミニッツTV
https://10mtv.jp
構成/豊田莉子(京都メディアライン)

 

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