写真・文/藪内成基
戦国時代から全国統一へと向かった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。いわゆる「三英傑」に仕える武将たちは、忠義を守りながら、時に家のために立場を変えながら生き残りを図りました。その中には、出世や左遷によって、全国を飛び回ることになった者も少なくありません。激動の「異動」を経た武将の人生を、ゆかりの城とともにご紹介します。
今回は、織田信長のもとでキリシタン大名として力をつけるものの、豊臣秀吉の反キリシタン政策により領地を失い、旧友を頼り各地を転々。晩年には徳川幕府の禁教令により、フィリピンのマニラに流される運命をたどった高山右近(たかやまうこん)を取り上げます。
■大和の地で父とともにキリスト教の洗礼を受ける
天文21年(1552)頃、高山友照の長男として高山右近が誕生します。高山友照は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能町)で、豪族として力をもっていました。しかし、戦国大名として名を馳せる松永久秀に従うこととなり、親子ともども沢城(現在の奈良県宇陀市)へと移ります。これが、高山右近の人生に大きな影響を与えるターニングポイントとなるのです。
高山右近が12歳の時、沢城にキリスト教修道士・ロレンソが招かれます。父・高山友照のすすめもあり、「正義の人」を意味する「ジュスト(ユスト)」という洗礼名を受け、キリスト教を信仰するようになりました。ここに、後にキリシタン大名として名を刻む、高山右近の歩みが始まったのです。
ちなみに、沢城はポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスが記した『日本史』にも登場するなど、カトリック宣教師がたびたび訪ねています。
■高槻城を基盤に織田信長の家臣として成長する
高山右近が17歳になった頃には、高山親子は高槻(現在の大阪府高槻市)へと移ります。そして天正元年(1573)、21歳の頃に父の後を継いで、高槻4万石の城主となります。その後、織田信長の家来となり、領内に20余りの教会を建て、キリスト教の布教に力を尽くしました。当時の人口2万5千人のうち、7割強がキリスト教信者であったともいわれています。
本能寺の変で織田信長が亡くなった後、天正10年(1582)の山崎合戦では、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)方の先鋒として活躍しました。賤ヶ岳の戦い後には功績により、明石で6万石を与えられ、船上(ふなげじょう)城を築城。さらに教会を建て、キリスト教の布教に努めます。
高山右近は茶人としても才能を発揮し、千利休の弟子の中で特に優れた茶人「利休七哲」の一人に数えられています。高山右近のほかに名を連ねるのは、蒲生氏郷、細川忠興、
【豊臣秀吉のバテレン追放令により領地を失う。次ページに続きます】