開創1200年を機に片山恭一さんと一緒に作った本『そうだ、高野山がある。』(バジリコ)の冒頭で片山さんはこう語ってます。
「現在、高野山には大小百以上の寺院がある。『一山境内地』と言われるように、山全体が一つの寺といってもいい。どうして空海は、こんなところに寺をひらいたのだろう。アクセスがいいといっても、それは電車やケーブルカーで登れるようになった近来のことで、当時は深い樹海に覆われた紀伊半島の人知れぬ山中に過ぎない。
一つの物語が伝わっている。唐への留学を終え、帰国の道中についたとき、空海は「伽藍(修行道場)建立の地を示したまえ」と願いながら、手にした法具(三鈷杵)に空中に投じた。三鈷杵は空の彼方へと飛び去った。後年、三鈷杵の行方を追っていた空海は、大和の宇智郡で一人の猟師と出会う。猟師は身長八尺(約二メートル)ほど、赤黒い肌の偉丈夫であった。手に弓と矢を持ち、黒と白の犬を連れている。その犬に導かれ、紀の川を渡り、険しい山のなかへ分け入ったところで、「この山をあなたに与える」という神託を聞く。神託したのは丹生都比売明神と呼ばれる、このあたりの山の主である。さらに山中を進んでいくうち、山上に忽然と平坦な土地が現れた。そこに立つ一本の松に、かつて投じた三鈷杵がかかっているのを発見した空海は、この地に真言密教の聖地をひらくことをきめたという。
史実と付き合わせてみれば、二十歳で出家した空海は、三十一歳の延暦二十三年(八〇四年)に最澄らとともに遣唐使船で唐へ渡っている。長安の都で恵果阿闍梨という高僧について真言の教えを受け、二年余りで真言密教の奥義を極め、「阿闍梨遍照金剛」の称号を得たのち、大同元年(八〇六年)に帰国する。伝説のなかで空海が三鈷杵を投じたのは、このときだろう。帰国後は幾つかの寺を転々とし、やがて高尾山寺に入り、東大寺の別当なども兼任しながら、嵯峨天皇から高野山を賜ったのが弘仁七年(八一六年)というから、帰国して十年後になる。これが高野山金剛峰寺のはじまりとされる」
宿坊にはほぼ半分ぐらいのフランスやイタリアなどからの外国人が宿泊して、朝5時から護摩焚きを静かに見守る姿がありました。京都や奈良に行って高野山のことを教えられたと言います。なぜいま、日本の仏教伝来の地に関心が寄せられるのでしょうか。「信仰によってもたらせる平和や穏やかな心が、僕たちのこころに眠っていたものを呼び覚ますのではないか」この場所にはそういう力を感じます。
ぜひみなさんもお出かけください。