文・写真/織田村恭子(アイルランド在住ライター)
放浪するゴースト
小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーンはギリシャに生を受け、父の母国アイルランドで子供時代を過ごした後、フランスやイギリス、アメリカへと放浪の旅を続ける。彼は“自分を絶えず放浪へと掻き立てる衝動”をゴーストと呼んだ。そして放浪の果てに辿り着いた日本を愛した作家であった。
イギリス軍医だった父チャールズは、駐屯地ギリシャで会ったローザ・カシマチと結婚。ラフカディオは1850年レフカダ島で3人兄弟の次男として誕生した。兄は生後2か月で亡くなっている。
父は西インド転任に際し、妻と2歳のラフカディオを故郷アイルランド、ダブリンの実家に送った。ローザにとって姑、小姑に囲まれ、宗教、気候が異なり、言語も不自由な国での生活は厳しかったに違いない。そんな中、帰還したチャールズは昔の恋人とよりを戻し、結婚は破綻していく。やがて精神を病んだローザは1854年、一人でギリシャに帰国し、4歳下の弟ジェームスを生んでいる。
父は結婚契約書に母の署名が欠落していた法的ミスと、ギリシャでの結婚が当時の英国法で違法なことを理由に離婚を申請し、1857年の離婚成立の2か月後、かつての恋人と再婚した。 この後、ラフカディオは同情した資産家の大叔母に引き取られている。
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(c) Lafcadiohearn.net (http://www.lafcadiohearn.net/)The Open mind of Lafcadio and James Daniel HEARN”
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気の毒な母
一方、ローザもギリシャ帰国後、すぐに再婚している。夫は再婚の条件にラフカディオと弟の親権放棄を要求した。実はローザは子供たちを取り戻すため一度、ダブリンに戻っている。しかしラフカディオの親権を持つ大叔母は既に引っ越しており、ハーン家は子供たちの居場所をローザに明かさなかったため、彼女は失意のうちにギリシャに戻るほかはなかった。これは彼女に大きな打撃を与え、後年、彼女が精神を病んだ原因になったと伝えられる。ローザは再婚後、4人の子供をもうけたが、1882年に59歳で亡くなっている。
ラフカディオは異国で苦労し、夫から理不尽に捨てられ、我が子と生き別れた母を気の毒がり、生涯恋い慕った。
乳母が開いた異界への扉
ラフカディオは神経過敏なほど繊細な子供だった。彼はダブリンの大叔母宅で妖精や幽霊をよく見たと語っている。中でも彼が従妹のジェーンと呼んだ幽霊は顔のないのっぺらぼうだった。まるで彼の著『怪談』にでてくる『むじな』のようだ。
ラフカディオの乳母の出身地コナハトは、キリスト教以前にアイルランドの土着宗教だったドルイド教の賢者や魔術師を多く生み出したとされた地方だ。この乳母が語るドルイド教、ケルト神話、妖精話はラフカディオを興奮させ、彼は神々や妖精が繰り広げる幻想の世界に引き込まれて行く。
ラフカディオは『怪談』に自身の深い洞察を投影しているが、そこにアイルランドのケルト文化と日本文化の共通点を多く見いだしたに違いない。『怪談』の一つ『青柳のはなし』は、まさにアイルランドを彷彿とさせるものだ。
吹雪の山で迷った侍が一軒の家で宿を乞う。そこで老夫婦の娘を見染め、結婚し幸せに暮らしていたが、ある日、妻は突然、苦しみだす。妻は自分が柳の精霊であり、誰かが木を切っていると告げて消えてしまう。衝撃を受け出家した侍が妻の実家を訪ねてみると、そこには切り倒された柳の切り株が3つあったという話だ。
アイルランド人は古代から自然、特に木に精霊が宿ると信じていた。野原に1本立つ木や輪のように並ぶ木にはフェアリー・ツリー(妖精の木)と呼ばれるものがあり、また円形に生えた草はフェアリー・リング(妖精の輪)と呼ばれる。いずれも妖精たちの家と考えられ、それらを傷つけるのは絶対的なタブーだ。妖精たちは人間に幸運を与えることもあるが、彼らを怒らせれば必ず復讐されるとアイルランド人は今でも信じているからだ。不可思議なもの・霊的なものに敬意を払うことはアイルランドでは当たり前なのである。ちなみに『怪談』に出てくるラフカディオの幼少体験の話『ひまわり』には、彼が7歳の時、従兄と『妖精の輪』を探したことが書かれている。
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ニュースになった妖精の復讐
今も多くのアイルランド人が記憶にとどめているニュースをご紹介しよう。
1999年、クレア州で高速道路計画が延期された。そこに『妖精の木』があり、撤去に対して大きな反対運動が起こったからだ。『妖精の木』に害を及ぼせば、高速道路で多くの死者が出るという意見まで噴出し、最終的に『妖精の木』がそのままにされたニュースはアイルランド以外の海外でも大きく報道された。
2011年11月22日付けで国有紙が『妖精の復讐』を報道した。
アイルランドで最も裕福なビジネスマンだったショーン・クインが事業で大失敗し破産したが、彼の地元キャバン州の人々は眉をひそめてこうコメントした。
「彼はビジネスのために4000年前の巨石墳墓を壊して移動した。古代墳墓、妖精の木や輪の平和を乱せば必ず妖精に復讐される」
望郷の念
ラフカディオは13歳まで過ごしたアイルランドへの望郷の思いを同胞の詩人W.B.イェイツ への手紙で、こう吐露している。「乳母がケルトの幽霊や妖精の話をしてくれたからこそ、そして自分は本当にアイルランドを愛しているのだ」
ハーンは愛憎半ばするアイルランドへの思いを募らせる一方で、もう誰も出迎えてくれる人もない寂しさもわかっていた。故郷から遠く離れた日本は自分の母が体験したように全てが異なる国だった。しかし日本で家庭を持ち、またケルトの神々のように、八百万の神がいて、自然や不可思議なものに敬意を払う日本文化は、彼に懐かしき故郷の面影を見せ、立ち昇る望郷の念を癒してくれたのではなかっただろうか。
【参考リンク】 https://lafcadiohearn.net/lafcadio/
文・写真/織田村恭子(アイルランド在住ライター)日本の多岐に渡る雑誌に現地ニュース、歴史・社会問題、旅行、料理等、記事・エッセイを執筆。またNHK地球ラジオを始め日本のラジオ番組へもアイルランドからニュースを発信。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。
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