文・写真/織田村恭子(海外書き人クラブ/アイルランド在住ライター)

田舎で始まったビール造り

1725年、アイルランド東部のセルブリッジで生まれたアーサー・ギネス。聖職者の財産管理人だった父親は、主の屋敷で携わっていたビール醸造技術を息子に伝授する。主が逝去時に親子に寄贈したお金を資本に、アーサーは1756年に故郷近くのリークスリップで醸造所を開き、最初の成功を収めた。

最初の醸造所跡地の塀。このあたりには倉庫があったようだ。
1756年にアーサー・ギネスがリークスリップに開いた醸造所は今はコートヤードホテルとなり、道標の上から二番目にそれが記載されている。
オリジナルの醸造所は長い年月の間、建物が朽ち果てていた時代もあった。1990年代に現在のオーナーがホテル・レストランとしてオープン、レンガ造りの外観やドアなどは当時の醸造所を再現した。

ギネスビール創業

ギネス醸造所はセント・ジェームス・ゲートとも呼ばれる。中世のダブリン市は四方を壁で囲まれ、西門があるセント・ジェームス・ゲート地区では17世紀以降、ビールやエール醸造業が盛んだった。当時の人々は不衛生な生水より、醸造されたビールやエールを飲んでいたのである。門は1734年に取り壊されたが、その名前は残り続けた。

オリジナルの門、セント・ジェームス・ゲートは1734年に壊され1850年に再建された。正面にはギネス創業年と現在の西暦が併記されている。

1759年、アーサーは34歳で、休眠状態だったセント・ジェームス・ゲート醸造所を年間わずか45ポンドで9000年賃貸する契約を結ぶ。場所はダブリン中心を流れるリフィー川沿い、当時、主流の運河輸送に最適の場所だ。ギネス家は事業発展と共に、近隣地域や通りを買い取っていった。

醸造所内にある英語とアイルランド語で表記された道標。18世紀初頭に貧困者長屋が多くあったこの通りは、事業拡大でギネスに買い取られ醸造所の一部となった。

こうして最初は4エーカーだった醸造所は1838年にはアイルランドで、さらに1886年には世界最大の醸造所となる。ちなみに現在の醸造所は55エーカー、東京ドーム4つ分の広さだ。

アーサーは実業家、慈善家、政治家、家庭人と伝えられる一方で熱血漢でもあった。こんな逸話が残っている。

ビール製造は大量の水を必要とする。ある時、セント・ジェームス・ゲート醸造所はダブリン市の割り当て水量を大幅に上回って消費した為、市は醸造所への水供給停止を決めた。激怒したアーサーはつるはしを掴むと、市議会に殴り込み、暴言で脅して、その決定を撤回させている。実際、この醸造所はギネス家に多大な利益をもたらすだけでなく、当時、貧しかったアイルランドに貴重な雇用を生み出し、多くの人々の生活を支えていたのだ。

映画の撮影スタジオのように広大な醸造所敷地内には、ギネスの長い歴史を物語る古い建物がずらりと並んでいる。
巨大化するギネス製造・輸送に対応するため、1873年から1975年まで使用されたギネス専用鉄道跡。石畳は当時のままでノスタルジーが立ち昇る。

失敗から生まれたギネスビール

アーサーはビール造りの最中に原料の麦芽を焦がしてしまった。それを捨てる代わりに他のビール会社に安く売ったところ、その美味しさに追加注文が来て驚く。こうしてギネスビールが誕生したという『神話』がある。話の信憑性はさておき、ギネスビールの香ばしい香り、ほど良い苦味と甘さ、濃厚でクリーミーな味わいは、確かに癖になる美味しさだ。アイルランド人が愛着を込めて“黒い奴”と呼ぶギネスは、今や世界150か国以上で愛飲されている黒ビールなのである。

老舗パブに飾られた珍しいギネスのサンプル模型。かなり古い物でクリーミーなギネスヘッドまで本物そっくりに作られている。

時代に先駆けた従業員福祉

ギネス家は従業員を大事にした。“従業員は安全で快適な環境の中でこそ、仕事に情熱を持て、良いビールが生まれる”と、手厚い福祉を整えた。従業員の賃金は1870年のアイルランド平均より10%も高く、従業員とその家族は会社の医療センターで、無料の医療を受けられた。さらに有給休暇、無料の食事提供、社員旅行、ビール手当の恩恵があり、1880年代には、全従業員に企業年金制度を導入している。確かにギネスは魅力的な職場であったと言えよう。

富は社会へ

ビール事業で莫大な富を築いたギネス一族は、社会への富の還元をモットーとした。初代の事業を受け継いだ次男のアーサーは、当時、煙突掃除に従事する貧しい子供たちの就業改善に尽くし、ベンジャミン(ギネス創業者アーサーの孫)は、重要な公共建築物の復元工事へ多額の寄付をした。1890年にはアーサー・ギネスのひ孫、エドワードが、ロンドンとダブリンのホームレス救済のギネス基金を立ち上げ、今日のお金で49億円を寄付している。また貧困者用の住居建設、衣類や食品市場を開き、アイルランドで初めての託児所も開いた。

ギネス家から寄贈された不動産も多い。22エーカーあるダブリンのセント・ステーブンス公園(https://heritageireland.ie/places-to-visit/st-stephens-green)は18世紀、富裕層専用に確保された地域で、周囲には豪華なジョージアン朝の邸宅が立ち並び、隣接する緑地には美しい庭園が整備されたが、一般市民は立ち入り禁止であった。ギネス家子孫の一人アーサーは1877年に、この場所を一般市民に提供することを議会で可決させ、公園整備費用を寄付している。また彼の弟のエドワードが住んでいた公園南側の豪華なアイヴィーハウス(https://www.gov.ie/en/organisation-information/e8c38-iveagh-house)は1939年に政府に寄贈され、現在は外務省となっている。こうしたギネス家の長年に渡る慈善事業のレガシーは、ダブリンのあちこちに見ることができるのだ。

ダブリンのフェニックスパーク内、78エーカーの土地に建つ豪華なファームリーハウス。アーサー・ギネスのひ孫、エドワードが自宅として1873年に購入。1999年にアイルランド政府が買い取り、現在は国賓の宿泊所。過去にはローマ法王、エリザベス女王、ウィリアム皇太子夫妻、2005年には当時の天皇ご夫妻も宿泊された。

ギネスを楽しむ

ギネスは2000年に、セント・ジェームス・ゲート醸造所の古い原料保管庫をギネスストアハウス(https://www.guinness-storehouse.com/en/visit)という展示館に改築した。それ以来、ここは人気の観光スポットとなっている。

2000年に醸造所内にオープンしたギネスストアハウスは人気の観光スポット。連日、各国から多くの観光客を引き寄せる。
ギネス醸造所内に複数あるギネス門。多くの観光客がこの前で記念撮影する。

ツアーではギネスの歴史や製造過程を学べ、最後は最上階にあるガラス張りのグラビティバー(https://www.guinness-storehouse.com/en/whats-hoppening/the-gravity-bar)に案内される。この円形のバーでダブリン市を360度見渡しながら飲む工場直送のギネス・ビールの美味しさは本当に格別だ。

またアイルランドのパブやレストランでは、ギネスシチュー、ステーキ&ギネスパイ、ギネスブレッド、ギネスケーキ等、ギネスビールを使った色々な料理が味わえる。

アーサー・ギネスの絵が掛けられたパブで“黒い奴”を口にすれば、265年の時を超えて、アーサーとさしで飲んでいるような気分を楽しめるのではないだろうか。

アイルランドの著名人が描かれたパブの看板。右上がギネス創始者アーサー・ギネス。

【コートヤードホテル 住所】 Main Street, Leixlip, Co. Kildare, W23 E9TI, Ireland
【ギネスストアハウス 住所】 St. James’s Gate, Dublin 8, D08 VF8H, Ireland
【セント・ステーブンス公園 住所】 St. Stephen’s Green, Dublin 2,D02 DX88, Ireland
【アイヴィーハウス 住所】 80-81 Saint Stephen’s Green, Dublin 2, Ireland
【ファームリーハウス 住所】 White’s Rd, Phoenix Park, Dublin 15, D15 TD50, Ireland
【参考リンク】https://www.guinness-storehouse.com/en/discover/story-of-guinness

文・写真/織田村恭子(アイルランド在住ライター)日本の多岐に渡る雑誌に現地ニュース、歴史・社会問題、旅行、料理等、記事・エッセイを執筆。またNHK地球ラジオを始め日本のラジオ番組へもアイルランドからニュースを発信。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織海外書き人クラブ(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。

 

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