文・写真/小川聖市(海外書き人クラブ/台湾在住ライター)
2023年4月26日のお昼休み。
総統府(日本統治時代の『台湾総督府』)の斜め向かいにある台北市立第一女子高級中学(以下、『北一女』)で、歴史科の教師による日本統治時代に関する講義が、校内の教師と生徒を対象に行われた。会場には、日本台湾交流協会(台湾で在外公館の業務を行う機関)台北事務所の新聞文化部の日本人職員も招待され、やや緊張感が漂う場となった。
1923年(大正12年)4月26日午後に学校を訪問
講義は、1923年(大正12年)4月16〜27日の皇太子裕仁親王(以下、『裕仁親王』)の台湾行啓に関するものだった。前半は、裕仁親王の経歴、背景、日程や訪問先が調整されていた様子、訪問先で採られた伝染病予防対策、移動で使用された御召艦(おめしかん)の軍艦「金剛」のことなど、台湾行啓の全体像が語られ、後半は、裕仁親王が台北州立台北第一高等女学校(当時の北一女の名称。以下『第一高女』)を訪問した時の様子が紹介された。
裕仁親王は、同年4月26日午後1時3分に第一高女に到着した。この時、台北州立台北第二高等女学校(戦後、廃校。以下、『第二高女』)の教師と生徒たちも第一高女へ赴き、裕仁親王を迎えた。到着後、第二高女の算術、第一高女の地理と裁縫の授業参観などが行われた。滞在時間はおよそ20分、第一高女到着時は自動車だったのに対し、出発時は馬車を使用し、次の武徳殿(柔道や剣道など、武道を広めるために建てられた施設)へ移動した。
行啓を受け、和装から洋装への制服変更
裕仁親王をお迎えするにあたり、第一高女は制服を変更した。
1906年(明治39年)に採用された海老茶式部の和装から、新制服は洋装を採用。上下濃紺(冬服)で、下はスカート、上は丈を短くしたダブルのトレンチコートのようなデザインで襟に白の三本線が引かれたものになった。新制服は、裁縫の授業時間を利用して作られ、生徒たちはそれを着て、裕仁親王をお迎えした。
1934年(昭和9年)には、紺のタイのセーラー服とスカートに変わり、胸ポケットには当時の校章が刺繍された。その後、戦争の影響で台湾でも空襲が頻発するようになり、1943年(昭和18年)には避難しやすいようスカートはカーキ色の長ズボンに変わり、上も人目をひくようなものでなければよしとされた。戦後、日本の統治が終わってからは、上は濃紺のブレザーと白のシャツにえんじ色のネクタイ、下は黒のスカート(冬服)となり、1952年から上は緑のシャツに変更され、現在に至る。
正しく、強く、淑(しとや)かに
北一女の正門をくぐり、駐輪場の方へ向かうと、その近くに石碑が置かれている。
よく見ると、日本語で「正しく、強く、淑(しとや)かに」と刻まれ、土台には「創立卅(30)年記念」と記されている。石碑は創立30周年の1934年(昭和9年)に造られ、彫られている日本語は、1931年(昭和6年)8月就任の浮田辰平校長によって改められた校訓である。
制服が洋装に変わった際、襟に白の三本線が入ったのは前述したが、その三本線に込められている意味は、この校訓(裕仁親王訪問時に変わった制服は、改められる前の校訓『優、強、淑』)だと言われている。
石碑は、1933年(昭和8年)落成の校舎(現在は『光復楼』という名称)の入口右側に置かれていて、当時の生徒たちは、石碑に一礼してから校舎に入った。
しかし、1945年(昭和20年)5月31日、台湾総督府も標的の1つになった台北大空襲で、校内を巡回中だった1942年(昭和17年)4月就任の伊藤仙蔵校長が亡くなるなど、学校は大きな被害を受け、石碑も行方不明になった。その後40年余り経ってから、終戦後に日本に引き揚げた校友たちが「第一高女」から「北一女」に変わった母校に戻り、何度も探した結果、現在正門横の受付がある建物裏で、木の古い根が絡みついた状態で見つかり、1995年に掘り出された。掘り出された石碑は、その後修復され、1998年から現在の位置に置かれている。
2023年12月12日に創立120周年の学園祭
4月26日の講義は、北一女が12月12日に創立120周年の学園祭を迎えるにあたり、生徒や教師たちに学校の歴史に触れる機会を設ける意味で行われた。また、5月25日のお昼休みにも、日本時代の写真や物も展示されている校史室(スクールミュージアム)で、9月の新学期から活動開始予定の来賓を接客担当する生徒代表の緑衣使節(北一女アンバサダー)の研修も兼ねたガイドツアーが行われた。
興味を持った読者の中には、校史室にあるものを見学したいと思う方がいるかもしれないが、一般の来校者向けの対外開放は毎年12月12日の学園祭開催時の10〜14時(2022年開催時)と限られている。もし12月12日に台北滞在予定があり、教科書に載っていない日本の歴史に触れてみたいと思う方がいたら、訪れてみてはいかがだろうか。
【参考】
・北一女百年特刊編輯委員会(2003年12月). 「典藏北一女(上、下冊)」. 正中書局
・台北市立第一女子高級中学:
https://www.fg.tp.edu.tw
https://www.fg.tp.edu.tw/about/校史專區/
https://www.fg.tp.edu.tw/about/歷史沿革/
・北一女校史工作誌:https://www.facebook.com/tfghistory
・「台湾新聞資料1」. 日本台湾交流協会
・「官報(1923年4月28日付)」:https://dl.ndl.go.jp/pid/2955344/1/9
・「田健治郎伝」:https://dl.ndl.go.jp/pid/1880388/1/308
・「二十世紀第一場政治秀:台湾1923年日本摂政宮裕仁皇太子『台湾行啓』影像展」. 国家撮影文化中心:https://ncpiexhibition.ntmofa.gov.tw/tw/OnlineExhibition/Detail/22062210334078051
・株式会社トンボ:
https://www.tombow.gr.jp/uniform_museum/style/style03.html
https://www.tombow.gr.jp/uniform_museum/pocket/03.html
・「大正期の17歳女子は何を読んだか-吉田彌平ら編『女子國語讀本』の基礎研究-」:https://osaka-kyoiku.ac.jp/Portals/0/images/resources/_file/jinji/kyodosankaku/josei/2017matsuoka.pdf
・「知られざる日本史――皇太子『台湾行啓』をたどる」. nippon.com :https://www.nippon.com/ja/column/g00463/?pnum=1
・「日本皇族的殖民地台湾視察」:https://www.ntl.edu.tw/public/ntl/4216/陳煒翰全文.pdf
文・写真/小川聖市(台湾在住ライター)
過去に台湾の野球を中心に取材、テレビ中継の情報提供、チャイニーズタイペイ代表の戦力分析の執筆などを経験。現在は教育、学生スポーツ、サブカルチャーなど範囲を広げている。2010年8月より台湾在住。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」会員(https://www.kaigaikakibito.com)