文・写真/冨久岡ナヲ(海外書き人クラブ/英国在住ライター)

2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、数ヶ月経った今もまだ止まっていない。プーチン露大統領が「核兵器の使用も辞さない」と発言するたびに、英国および欧州の国々は、第二次世界大戦のあとから40年あまり続いた冷戦時代を思い起こさせられている。

戦時中の空襲によって焼け野原となったロンドンが、復興活動に集中する間もなく直面した次の脅威が冷戦時代の核攻撃だった。緊張が高まった1950年代、政府は緊急対策を実施、ロンドンの地下鉄も例外ではなかった。今もわずかに残る当時の痕跡を訪ねてみた。

超人気ドラマ「シャーロック」がばらした? 国家機密の駅

その一つは高度な国家機密のはずだったのだが、意外なところから秘密がばれてしまった。

発端は2014年の元旦。BBC制作の超人気ドラマ「シャーロック」シリーズ3の第一話「空の霊柩車」が放映され、1270万人という高視聴者数を記録した(英国の人口は約6千万人!)。このドラマはコナン・ドイルの原作「シャーロック・ホームズ」をベースに舞台を現代に移して創作された番組だ。

その中で「未完成のまま放置されたスマトラ・ロード地下鉄駅」という建物が、国会議事堂の爆破を密謀するテロリストのアジトとして登場する。各話が放映されるたびにロケ地を割り出してはソーシャルメディアに投稿する番組のファン達は、すぐにその「駅」がどこにあるかを発見した。

大邸宅がずらっと建ち並ぶ北ロンドンのハムステッド。

それは英国で最も裕福なエリアの一つ「ハムステッド」にある。ロンドン中心部から北に30キロほどのところに位置し、ハムステッド・ヒースという広大な自然公園を囲むように富裕層、文化人、セレブなどが住む大邸宅が並んでいる。

もともとの駅名はノース・エンド(North End)。行ってみるとただの四角い小屋で、とても「駅」には見えない。それもそのはず、駅舎は作られずプラットホームに電車が停まったことも一度もないのだ。

幻のノース・エンド駅。地下鉄が通過するたび換気塔からゴーっという音が聞こえる。

この駅は20世紀初頭の英国で一儲けを目論んだ米事業家の一人、チャールズ・ヤーキス(Charles Yerkes)が計画した地下鉄ノーザン線拡張の一環だった。ロンドン郊外の高台にあるのどかな村ハムステッドを、中流層向けの住宅地として開発し定期券にあたる年間チケットを多数購入してもらおうという狙いだ。鉄道開発は当時、民間資本でのみ行われていた。

工事は始まったのだが、地元に住み環境保全を訴える裕福な教育家ヘンリエッタ・バーネットと有志が周辺の土地を買い占めて宅地開発を阻止する。見込まれる乗客数が大幅に減ってしまったヤーキスは計画を放棄した。1906年のことだ。

作りかけの駅はそれから何十年も放置されたが、地下深くにすでにできていたプラットホームは戦争中に重要な国家機密書類の保存に使われた。なにせ工事が止まった時は駅舎もなく、外からの出入り口はいっさいなかったのでここに到達するには隣の駅から線路をたどるしかない。そしてトンネルはロンドン地下鉄ネットワーク中最も深いところにある(深度は推定67.3メートル)。敵から発見されにくいという意味では理想的な場所だった。

核攻撃を受ける可能性が高まったとみなされた50年代、この幻のノース・エンド駅はさらに重要な役目を負うことになる。

変電所そっくりに偽装した建物。鉄のドアもランプも1958年に作られた当時のままだ。

戦時中、敵の攻撃によってテムズ川底のトンネルが破壊され地下鉄内に大量の水が流れ込むという惨事を防ぐため、川に近い部分だけでなく地下鉄のネットワークの要所要所に水門が作られた。その開閉の管理は、最都心にあるレスター・スクウェア駅に設置されたコントロールセンターが一手に行っていた。

しかし核攻撃を受けた場合の被害シュミレーションから、このセンターは水門を閉じるスイッチを入れる暇もなく機能を失うと出た。そうなればトンネルに流れ込んだ水は各路線の隅々まであっという間に溢れてしまうだろう。計算では、都心で最も深いところにあるホルボーン駅構内に洪水が到達するまでの時間は4分間しかない。戦時中に防空壕代わりに使われていた地下鉄駅の構内は今や核シェルターに指定されている。警報を聞きホームに避難した多数の市民をトンネルから怒涛の勢いで吹き出した水が襲う……。

第二次世界大戦中、大規模な空襲に連日襲われたロンドンでは地下鉄駅が防空壕として開放されていた。パブリック・ドメイン画像 ウィキペディアより

そこで政府は密かに、ノース・エンド駅地下に臨時の水門コントロールセンターを作ることを決定。1958年には地下深くの狭い部屋にスイッチ盤と電話が設置された。地表には変電所を装ったコンクリ小屋を作り、線路レベルまで197段もの階段と途中までのエレベーターがつけられた。

そして呼び名も、駅ができるはずだった道の名である「ノース・エンド」から「ブル&ブッシュ」に変えてしまった。これはすぐそばに18世紀からあるパブの名前で、同名の店が全国にあることからその位置がばれにくいだろうという配慮だった。

ノース・エンド駅そばのパブ「オールド・ブル&ブッシュ」

「ブル&ブッシュ水門コントロールセンター」というと聞こえはいいが、昨年テレビで紹介された内部の様子を見る限り、4畳半ほどもない部屋はとんでもなく分厚い鉄の扉に囲まれ、打ち放しのコンクリ壁を挟んでトイレ、シャワー、電気コンロが置かれているだけだ。

二人の係員が24時間体制で控えていたが、一旦入室したらシフトが完了するまで閉じ込められる。外界との連絡は電話のみ。閉所恐怖症には到底務まらないだろう。

「シャーロック」でこの駅の存在が一般の知るところとなるまで、冷戦時代の核攻撃対策の役割を担ったことを知っていたのはほんの一握りの戦争オタクや地下マニアだけだった。しかし、番組に出てきた「スマトラ・ロード駅」のモデルが判明するや、秘密裏に作られ忘れ去られたはずの水門コントロールセンターの情報は、ソーシャルメディアに乗ってあっというまに知れ渡ってしまった。2021年には、テレビ番組「シークレット・オブ・アンダーグラウンド」シリーズの中で、幻の「ノース・エンド」駅とその内部映像が初めて公に放送された。

一般人が内部に入ることはできないが、ロンドン交通博物館のウェブサイトから中の様子を見ることができる。(https://www.ltmuseum.co.uk/collections/stories/engineering/north-end-hidden-history-station-never-was

不思議なことに、センターは完成後たった数年でお役目ご免となっている。冷戦時代がその後何十年も続いたにもかかわらず。

その理由は水素爆弾の登場だ。1961年にはソビエト連邦が世界最大規模の核実験を行う。その威力を分析した政府は、核攻撃が行われたらロンドン周辺一帯が一瞬にしてクレーターと化してしまうことに気づいた。さらに60年代後半には、政治的な抑止力によって英国に実際に核爆弾が落とされる可能性が薄らいだこともあって、地下鉄内の水門は一度も閉じられることなくひとつひとつ取り外されていった。

数奇な運命をたどったノース・エンド駅のコンクリ小屋は残され、197段の階段は地下鉄内で火災など事故が起きた場合の避難口に指定されている。

地下鉄の緊急避難ルート指定というサインが掲げられた、ノース・エンド駅の入り口部分。

今でも水門跡が残る、エンバンクメント駅

さて、今でも水門跡が残る駅がただひとつある。それを見るために北ロンドンから都心に戻り、エンバンクメント駅に辿り着いた。

マスク姿もまったく見られなくなったロンドン。地下鉄エンバンクメント駅は川岸に面している。

「堤」を意味するその駅名の通り、この駅はまさにテムズ川岸に面している。ノーザン線北方面行きプラットホームに降りて端まで歩くと、巨大な扉の枠組みやスライドするためのレールなどが残っている。

分厚い防水扉が左から右にスライドしてトンネル出口をふさぐ設計だった。
扉を動かすための巨大な歯車。

戦時中は化学兵器による攻撃にも備えていたので、天井近くの梁には「ガスマスク装着」という看板もぶらさがっていたそうだ。

ところで、ホームに立っていると電車が入って来た。ドアがあくと「マインド・ザ・ギャップ」という男性のアナウンスが構内に響き渡る。車体とプラットホームの「隙間(ギャップ)にお気をつけください」という意味で、イギリス人なら誰でも知っているフレーズだ。

50年あまり前に録音された「マインド・ザ・ギャップ」のアナウンスが鳴り響く。

ただし、このディープな声とちょっと古めかしいアクセントを聞くことができるのはここでだけだ。2012年にすべてのアナウンスがデジタル音声へと切り替わった時、声の持ち主だった俳優オズウォルド・ローレンスの未亡人マーガレットはロンドン交通局に訴えた。「私は夫が亡くなった2007年以来、寂しくなるとこの駅に来て彼の声を聞いては心を慰めてきました。どうか夫のアナウンスをやめないでください」

交通局は未亡人の願いを聞き入れた。アナログ音声はもう使えなかったのだが、オリジナルの録音テープを見つけ出してデジタル化しシステムに戻したのだ。駅員たちは今も時折、ホームの端のベンチに座り電車が来るとじっとアナウンスに聞き入る老婦人を見かけることがあると言う。

冷戦は終わっても核の脅威は消えていないどころか、ウクライナ危機のような争いが起こるたびに再び俄然と現実味を帯びて戻ってくる。水門の跡を眺めながら、平和について改めて考えさせられた。

アナウンス音声を聞くことができるロンドン交通博物館のページ:https://www.ltmuseum.co.uk/blog/mind-gap-story-embankment-stations-announcement

文・写真/冨久岡ナヲ (英国在住ライター)
ロンドン在住のジャーナリスト、英国ビジネスや時事ネタを中心に執筆中。旅と鉄道と食が趣味。共著に「コロナ対策 各国リーダーたちの通信簿(光文社新書)」がある。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/

 

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