取材・文/坂口鈴香
前回「親の終の棲家をどう選ぶ? ボクはヤングケアラー(介護を担う子ども)だった」(https://serai.jp/living/1065824)で、ヤングケアラーだった男性の話を紹介した。ヤングケアラーの存在は近年注目を集め、マスコミなどでもさかんに取り上げられるようになったが、世間一般に認識されていなかっただけであって、当然ながらヤングケアラーが今になって出現したわけではない。それにしても、「子どもの貧困」という言葉のように、深刻な実態を端的に表す日本語がないものかと思う。ヤングケアラーという言葉に替わる名称を使いたいと思っているのだが、今のところ適当な言葉が見つからないのでここでは「ヤングケアラー(介護を担う子ども)」と併記しておくことで、せめてもの抵抗としたい。
さて、ノーベル賞作家、川端康成も若いころ祖父を介護していたのをご存じだろうか。
『十六歳の日記』に見る川端康成の介護
川端の著書『十六歳の日記』(岩波書店)は、5月4日のこんな記述からはじまる。
中学校から家へ帰ったのは五時半頃。門口の戸は訪問客を避けるためにしまっている。祖父がただ一人寝てるのだから、人が来ては困る。(祖父は盲目でした。)
(以下、引用はすべて『十六歳の日記』)
「ただ今。」と言ってみたが、答える者もなく静まり返っている。寂しさと悲しさとを感じる。
『十六歳の日記』は、大正3年5月4日から16日まで、寝たきりの祖父とのやり取りを中心に記した日記である。16歳とあるのは数え年で、満でいうとまだ14歳だ。あとがきによれば、川端の両親は彼が満1、2歳のときに亡くなり、祖母も満6、7歳時に亡くなっている。それから10年近く、祖父が数え年の75歳で亡くなるまで、二人で暮らしていたという。祖父は大正3年5月24日に亡くなっているので、『十六歳の日記』は、最晩年の祖父の介護生活が書き留められているということになる。
川端は中学1、2年のころから小説家を志し、祖父にも許されていたというが、この日記はいずれ小説にしたいという意識はなかったようだ。
「十六歳の日記」は、「小説」などにかかわりなく、ただ祖父の死の予感におびえて、祖父を写しておきたくなったのだろう。(中略)祖父はほとんど盲だったから、私に写生されているとは気づかなかった。(あとがき)
川端は原稿用紙を100枚用意して、100枚になるまで書き続けたいと考えていた。100枚になる前に祖父が死ぬのではないかと不安に思いながら、他方で100枚になれば祖父は助かるというわずかな希望にもすがっていた。祖父が死にそうに思えるからこそ、せめてその面影を日記にでも写しておきたいという気持ちもあったのだという。
不平を言う自分を恥じる
日記を書いてから10年後、思いがけず叔父の蔵で日記を発見した川端は“この祖父の姿は私の記憶の中の祖父の姿より醜かった”と明かしている。
醜い祖父の姿――たとえばこんな描写だろうか。
学校から帰ると、盲目の祖父が待っていたとばかりにおしっこをさせてほしいと訴える。
「ぼんぼん、豊正ぼんぼん、おおい。」死人の口から出そうな勢いのない声だ。
「しし やってんか。しし やってんか。ええ。」
川端は一人で排泄できない祖父のために、尿瓶をあてがう。
「はいったか。ええか。するで。大丈夫やな。」自分で自分の体の感じがないのか。
「ああ、ああ、痛た、いたたったあ、いたたった、あ、ああ。」おしっこをする時に痛むのである。苦しい息も絶えそうな声と共に、しびんの底には谷川の清水の音。
「ああ、痛たたった。」堪えられないような声を聞きながら、私は涙ぐむ。
老いて死が迫る祖父の姿だ。祖父の苦しそうな声に涙ぐむ一方で、“尿瓶の底には谷川の水の音”という形容からはいかにも小説家を志している少年らしい感性が伝わる。こうした視点を持っていたことは、14歳の介護者には幸いだったと思う。介護真っただ中の自分自身と祖父を少しでも客観的に見ることができたのだから。
とはいえ、排泄介助は肉親だからこそつらいものがある。川端も、排泄介助が最も嫌な仕事だったようだ。
これくらい私に嫌な仕事はない。(中略)この(筆者注・排尿を)待つ間に、私は不平を言う。嫌味を言う。自然に出るのだ。すると祖父は平あやまりに詫びられる。そして日々にやつれて行く、蒼白い死の影が宿る顔を見ると、私は自分が恥しくなる。
思わず不平や嫌味を漏らしてしまう川端、そんな自分を恥じる川端。肉親を介護する人なら誰もが共感できるのではないだろうか。
(あのノーベル賞作家もヤングケアラー(介護を担う子ども)だった【後編】に続きます)
取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。