文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)

『四季』の作曲者として知られる、アントニオ・ヴィヴァルディ。第一楽章「春」を口ずさむことのできる人も多いだろう。バロック時代のイタリアで一世を風靡した作曲家だが、ヴェネツィアで始まり、ウィーンで終わったその人生は、あまり知られていない。

なぜヴァイオリンの才能に恵まれたヴィヴァルディが、司祭の道を選んだのか?
ローマ教皇の前で演奏し、枢機卿を敵に回し、皇帝を虜にした、その数奇な運命とは?
彼を取り巻く謎の姉妹との関係は?
人生の最後に、彼はウィーンに何を求めたのか?

今回は、謎に包まれたヴィヴァルディの人生を、最期の一年に焦点を当てて紐解いていく。

ヴィヴァルディの時代に作られた、ウィーン王宮内部の図書館プルンクザール

「赤い司祭」

アントニオ・ヴィヴァルディは、1678年、ヴェネツィアの床屋の息子として生まれる。父親は趣味で音楽をたしなんでいたため、息子にヴァイオリンを教えた。

ヴィヴァルディは、10代前半で音楽の才能を伸ばしたが、生まれつきの喘息のため、ヴァイオリン演奏や作曲は可能だが、管楽器の演奏はできなかったと言われている。この病気は一生付きまとい、欧州中の演奏旅行に明け暮れた時でも、長距離を歩くことはできず、馬車やゴンドラに乗っての移動が主だった。

そんなヴィヴァルディは、15歳で司祭になる道を選び、25歳で叙任される。髪が赤かったことから「赤い司祭」と呼ばれた。しかしその翌年、健康上の理由から、司祭の主な仕事である「礼拝を執り行う」という業務を免除される。代わりに彼の得たポストは、孤児院「ピエタ」の女子音楽部門の監督だ。

孤児院では、男子はいずれ仕事を探して独り立ちするが、女子は残ってオーケストラや合唱を続け、公演を行う。この音楽監督をヴィヴァルディは30年も務め、公演を率いつつ、60ものコンチェルトやカンタータ、宗教歌唱曲、オーケストラ曲などの作品を作曲した。

全盛期と謎の姉妹

ミサを行わない「赤い司祭」は、王侯貴族から依頼を受けて作曲したり、自ら興行をかけてオペラを上演したりと、ほぼ本職の音楽家と変わらない活動を続けた。

欧州中から人気を博し、海外公演も行ったばかりか、フランスのルイ15世のために作曲したり、ローマ教皇に御前演奏を行ったりと、まさに引く手あまたの人気作曲家だ。『四季』を作曲した1725年頃は、まさに彼の作曲とキャリアの円熟期と言えよう。

そんな人気の絶頂期、40代半ばのヴィヴァルディは、10代のアンナ・ジーロと、その20歳年上の異父姉で、保護者兼マネージャーのパオリーナと出会う。ヴィヴァルディはアンナに音楽を教えただけでなく、プリマドンナに抜擢し、アンナを主役にしたオペラを19作品も作り、上演した。姉のパオリーナは、身の回りの世話をする「看護婦」としてヴィヴァルディに付き添い、この三人の不思議な関係は、ヴィヴァルディの死まで続いた。

独身の司祭が、二人の女性と公私ともに親しくし、身の回りの世話を任せ、自宅に頻繁に出入りさせている。「赤い司祭のアニーナ(アンナの愛称)」とすら呼称された二人の関係は、広く知れ渡った。ヴィヴァルディ自身は関係を否定しているが、アンナの存在を怪しむ人も少なくなかった。

1737年、枢機卿トマーソ・ルッフォは、「司祭なのに礼拝を執り行わず、ジーロなる歌手と親しくしている」という理由から、フェラーラの町でのヴィヴァルディのオペラ上演を禁止する。折しも、時代はヴィヴァルディの得意としていたオペラ・セリアから、喜劇的な内容のオペラ・ブッファへと変わりつつあった。また、作曲家であると同時に、興行主としてオペラ公演を取り仕切っていたヴィヴァルディは、次第に敵も多くなり、人気を失っていく。

大ファンの皇帝を頼り、新天地ウィーンへ

自分の音楽が時代に合致しなくなってきたことと、興行としてオペラを成功させることが難しくなってきたことに気づいたヴィヴァルディは、イタリアを離れ、新天地で返り咲こうと考える。そんな時に頭に浮かんだのが、神聖ローマ皇帝カール6世の治める地、ウィーンだ。

「女帝」マリア・テレジアの父親として知られるカール6世は、ヴィヴァルディの同世代人だ。優れた作曲家であった父親のレオポルト1世の影響で、音楽や建築に造詣が深いことで知られる。「世界で最も美しい図書館の一つ」とされる、ホーフブルク(王宮)内のプルンクザールや、ペスト終息を記念して建造されたカールス教会など、現在のウィーンを彩る豪奢なバロック建築は、カール6世の時代に建てられたものが多い。

プルンクザール内の皇帝カール6世像

1728年、カール6世はオーストリア領だったトリエステ(現在のイタリア)を訪問し、人気絶頂期のヴィヴァルディと会っている。『四季』を作曲した3年後で、乗りに乗っていたヴィヴァルディは、皇帝に『ラ・チェトラ』という曲集を捧げた。

皇帝はヴィヴァルディをいたく気に入り、騎士の位と金メダルと金の鎖に加え、大量の金品を与えただけでなく、「二週間でヴィヴァルディとした会話は、この二年間で大臣と話したよりずっと多かった」と言われている。皇帝の招待を受け、ヴィヴァルディは翌年ウィーンを訪問している。

トリエステの街並み

イタリアでの人気に陰りが出てきた10年後、60歳のヴィヴァルディは、このカール6世の歓待を思い出し、ウィーンでの再起を思い描いたのだろう。1740年の春ごろ、手持ちの楽譜を売り払って旅費を作り、途中グラーツでアンナ・ジーロと合流し、9月ごろにはウィーンに到着したとされている。

皇帝の悲劇と夢の終わり

ウィーンでヴィヴァルディが何を成し遂げたかったのか、実際に何を行ったかは、その後起こった悲劇が原因で、記録に残っていない。ゆくゆくは宮廷楽長になる希望もあったのかもしれない。ウィーンに到着した彼が、ケルントナートアー劇場のすぐそばに宿を取ったことからも、オペラを上演する意図があったことは明白だ。

ヴィヴァルディが宿を取ったのは、現在はザッハトルテで有名なホテル・ザッハのある場所だ

このケルントナートアー劇場は、後にモーツァルトのピアノコンチェルトやベートーヴェンの『フィデリオ』改訂版の初演が行われたことでも知られる、由緒正しきウィーンの劇場だ。1870年に老朽化のため取り壊された後、すぐ横の敷地で、「ウィーン国立オペラ座」としてその歴史を紡ぎ続けている。

現在のウィーン国立オペラ座
当時のケルントナートアー劇場の場所には、カフェ・モーツァルト等の入っている建物がある

こうして、晩年のヴィヴァルディは、自分の大ファンである皇帝がいるウィーンで、再起をかけて夢に燃えていた。その時、彼の計画を覆す不幸が起こる。

ヴィヴァルディのこの上ない庇護者となりえた皇帝は、彼のウィーン到着から間もなく、1740年10月に、突然の腹痛から崩御したのだ。皇帝の崩御から1年間、国は喪に服し、音楽活動は一切行われなくなる。更に、娘のマリア・テレジアの即位をめぐって戦争が起き、ヴィヴァルディは、最大のファンを失っただけでなく、演奏の機会すら失ってしまったのだ。

失意のうちにヴィヴァルディは、翌年7月28日に熱病でこの世を去る。ヴィヴァルディが逗留していた一角は、現在ホテル・ザッハとなっていて、彼がここで亡くなったことを示す史跡パネルも埋め込まれている。

ホテル・ザッハにある、ヴィヴァルディ最期の家の史跡パネル

ヴェネツィアで栄華を極めたヴィヴァルディも、最期は困窮して亡くなったため、亡骸は貧民墓地に投げ込まれた。カール6世自身の名を冠したカールス教会の周りに、当時あった墓地だ。後にその墓地は撤去され、ウィーン工科大学が建っているが、大学の壁面には、ヴィヴァルディの埋葬地に関する史跡パネルが埋め込まれている。

ウィーン工科大学
ヴィヴァルディの埋葬地を示す史跡パネル

アンナ・ジーロは、ヴィヴァルディの死後もしばらくはウィーンにとどまったが、その後イタリアに戻り、ソリストとしての活躍を続けた。

* * *

イタリアで一世を風靡した、「赤い司祭」ヴィヴァルディ。王侯貴族に御前演奏を聞かせ、欧州中をツアーで回り、50のオペラと400近いコンチェルトやオラトリオを作曲したその数奇な人生の晩年は、貧困と失意のうちに、異国の地ウィーンで人知れず消えていった。

ヴィヴァルディにとっての夢の都ウィーン。その夢は、カール6世の死と共に露と消え、時代は「女帝」マリア・テレジアへと移っていった。ハイドン9歳、モーツァルト誕生15年前のことである。「音楽の都」ウィーン黎明期への、早すぎた来訪だったのかもしれない。

文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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