取材・文/長嶺超輝
あまり知られていないが、裁判官には、契約や相続などのトラブルを裁く「民事裁判官」と、犯罪を専門に裁く「刑事裁判官」で分かれている。片方がもう片方へ転身することはほとんど起きず、刑事裁判官は弁護士に転身するか65歳の定年を迎えるまで、ひたすら世の中の犯罪を裁き続ける。
では、刑事裁判官は、何の専門家なのだろうか。日本の裁判所は「できるだけ裁判を滞らせず、効率よく判決を出せる」人材を出世ルートに乗せる。判決を片付けた数は評価されるが、判決を出したその相手が、再び犯罪に手を染めないよう働きかけたかどうかは、人事評価で一切考慮されない。
その一方、「人を裁く人」としての重責を胸に秘め、目の前の被告人にとって大切なことを改めて気づかせ、科された刑罰を納得させ、再犯を防ぐためのきっかけを作ることで、法廷から世の中の平和を守ろうとしている裁判官がいる。
刑事訴訟規則221条は「裁判長は、判決の宣告をした後、被告人に対し、その将来について適当な訓戒をすることができる」と定める。この訓戒こそが、新聞やテレビなどでしばしば報じられている、いわゆる「説諭」である。
今回お送りするのは、ふたりの子どもを育てるために、万引きを続けていたシングルマザーの裁判。シングルマザー世帯の平均所得は、通常の子育て世帯の約半分にとどまり、貧困率が非常に高いといわれる。万引きはれっきとした窃盗罪だが、裏側にはその家庭ならではの切実な事情もあった。
■母子家庭の一家団らんを守りたい
「おかん、せんでええで、ヘタやねんから」
優しい言葉だった。
学校から帰ってきた息子は、風呂掃除や洗濯などを進んでしてくれるようになった。
その真似をして、小学生の娘も家事を手伝っている。
おかげで、得意な料理に集中することができる。
夕飯の場は、学校であった出来事を愉快にまくしたてる娘の独壇場となっていて、母と息子がすかさずツッコミを入れるたび、部屋が笑いに包まれた。
高校1年になる息子は食べ盛りだ。せめて、夕飯では食べたいものだけは我慢せず、たくさん食べさせてあげたいと思っていた。
フライパンひとつで作った食事を、美味しそうにほおばる息子の表情を見ているのが、何よりの幸せだった。
中学生の頃、「美容師になりたい」という夢を語ったことがある息子だったが、いつしかその夢について触れることはなくなっていた。
その息子からは「俺、バイトするわ。おかん、大変なんやろ」と、家計を助ける申し出が何度となく繰り返された。しかし、そのたびに「いらんいらん、学校でバイト禁止されてんやろ」と断った。
■ついに越えてしまった一線
ゆっくり歩きながら、陳列されている商品を気にしている客ばかりのスーパーマーケットで、その女はしきりに人目を気にしていた。
精肉コーナーの豚バラ肉パックの前で足を止め、顔をなるべく動かさず、横目で自分のことを誰も見ていないことを何度も確認した。
激しく脈打つ鼓動と、ギュルギュルと鳴る腹に耐えながら、唐揚げ弁当に何度も手を伸ばし、引っ込める。その動作を繰り返した。
全身が汗ばみ、しびれるような感覚をおぼえた。
ただ、豚バラなど数点の食材や惣菜を、トートバッグに入れて店外へ持ち出すのに成功したとき、女はこの上ない達成感や解放感で打ち震えた。
たった数十秒前まで、罪の意識にさいなまれ、「どうして、こうなってしまったんだろう」と自責の念に駆られて、悔しさで涙ぐんでいた。
それなのに、万引きをして快感にひたっている自分自身に、女は驚いていた。
今まで、万引き目的でスーパーに入っても、罪悪感に心が握りつぶされそうになり、その場で動けなくなって、そのまま手ぶらで店外へ出たことが何度もあった。
しかし、一度、万引きに手を染めてしまうと、歯止めが効かなくなってしまった。
その日に食べたいもの、子どもたちに食べさせたいものは、スーパーから盗んで持って帰るのが当たり前になっていた。
何度も繰り返しているうちに、手口もこなれてきた。
もし、子どもたちと協力すれば、もっと楽に早く万引きをできるかもしれないと思った。しかし、将来のある彼・彼女のために、それだけは避けなければならないと覚悟していた。
子どもたちを育て上げるため、泥をかぶるべきは自分だけで十分だと思っていた。
【母は、なぜ追い詰められたのか? 次ページに続きます】