文/晏生莉衣
パリの「長崎の天使」を知っていますか?【世界が変わる異文化理解レッスン 基礎編22】

世界中から多くの人々が訪れるTOKYO2020の開催が近づいてきました。楽しく有意義な国際交流が行われるよう願いを込めて、英語のトピックスや国際教養のエッセンスを紹介します。

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長く暑い夏もようやく終わりを告げる頃。8月は、日本人にとっては平和を考える季節でもあります。

長崎の原爆記念日の8月9日、被爆地から500メートルほどのところにある浦上天主堂では、今年も静かに犠牲者の追悼と平和を願う祈りが捧げられました。長崎を代表するこのカトリック大聖堂は、1945年のその日、広島の「リトルボーイ」に続く「ファットマン」の投下によって崩壊してしまいましたが、瓦礫の山から奇跡的に見つかったのが、首から上の部分だけ残った聖母マリアの像でした。頬に大きなやけどの痕を残し、両目が黒く抜け落ちてしまった「被爆マリア像」は、原爆の苦しみ、悲しみを訴え、平和を願う長崎の象徴とされてきました。

今年はさらに、新たにアメリカから「被爆十字架」が、長崎原爆記念日に合わせるようにして浦上天主堂に返還されたことを、ニュースなどでお知りになった方もいらっしゃると思います。この十字架は、終戦の年の10月に長崎に進駐したアメリカ海兵隊の兵士によって発見され、カトリック信者だったその兵士が、当時の長崎司教の許しを得て個人的にアメリカに送ったとされています。十字架は、のちにオハイオ州のウィルミントン大学平和資料センターに寄贈されましたが、元海兵隊の方は2010年に亡くなっていて、1メートル近いこの大きな「被爆十字架」の存在を、現在の浦上天主堂関係者は今年になるまで知らなかったそうです。長崎で被爆した十字架が戦後から70年以上も日本人に知られることなくアメリカの地にあったということには、ただただ驚きを覚えるばかりですが、その被爆の遺物が紛失されることなく大切に保管され、無事に長崎に戻ってきた流れには、なにか不思議な計らいのようなものも感じられます。

そしてもう一つ、長崎原爆の記憶を残す聖なる遺物が、日本でもアメリカでもなく、フランスのパリに存在しているのですが、そのこともまた、日本人の間であまり知られていないのではないでしょうか。

なぜ、パリに?

それは、やはり浦上天主堂にあったもので、天主堂の焼け跡に残された数十体の石像のうちの一つの天使像です。それがなぜ、パリにあるのかと言うと、そのいきさつは「被爆十字架」のように知られざるものではなく、1976年のユネスコ(国連教育科学文化機関)の創立30周年記念に、平和と希望の象徴として、長崎市からユネスコへと寄贈されたという公的な経緯によります。

ユネスコのパリ本部敷地内には、イサム・ノグチが手掛けたGarden of Peace(平和の庭園)という、平和をテーマにした日本庭園があり、寄贈された「被爆天使像」はAngel of Nagasaki(長崎の天使)と名付けられて、その日本庭園から見渡したところにある本部のビルの外壁に設置されることになりました。

その場所に立ち、上を見上げると、40センチほどと言われる天使の胸像は、被爆マリア像と同じく原爆のダメージを残し、顔の左部分が欠け落ちて、右側の頭部にも焦げたような跡が見られます。それでも、現在も浦上天主堂に飾られている黒焦げやただれのような跡が残った像の数々を見たことがある方なら、それらに比べて、パリにある被爆天使像は、傷痕をはっきりと残しながらも原型のままの優美さをはるかにとどめていることに気づくことでしょう。

美しかった長崎の天使、そして原爆によって傷つけられた長崎の天使、その両方の姿を、ここを訪れた人に感じ取ってもらって、原爆の悲惨さと平和の尊さを世界に訴えたい ―― ユネスコへの寄贈物に、美しさの中に悲しみをたたえるこの天使像を選んだ長崎からのそんな願いを感じることができます。

世界遺産に翻弄された浦上天主堂

長崎のカトリック教会と言えば、昨年6月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録が決定されたことは、多くの方々がご存知だと思います。この世界文化遺産は、潜伏キリシタンの始まりから終焉までの時代において役割を果たした資産で構成されるため、1865年に浦上の「信徒発見」の舞台となった大浦天主堂は、キリシタンの潜伏が終わるきっかけとなった場として構成資産のうちに含まれましたが、キリスト教の禁教が解かれた後に建設計画が始まり、大正時代に完成した浦上天主堂は、この世界文化遺産に含まれませんでした。

江戸時代末期から明治初期にかけて、「浦上四番崩れ」と言われる厳しい弾圧が行われ、信徒が踏み絵を踏まされたその地に建つ浦上天主堂が、潜伏キリシタンとの深い関わりにも関わらず、昨年の世界文化遺産の構成資産とならなかったことには、時代区分の関係上、仕方がないこととはいえ、落胆する声が聞かれています。

このように浦上天主堂が歴史の記憶に関して辛酸をなめるのは、これが初めてではありませんでした。終戦後、一部残った天主堂の外壁を保存して、原爆の恐ろしさを後世に伝えようという動きが起こったものの、平和な未来へと人々の気持ちを一つにするために新しい教会を建設する決定がされて、残存していた一部の外壁は残念ながら取り壊されたという過去があります。現在建っているのは再建された新しい天主堂ですが、旧天主堂が撤去されずに保存されていれば、原爆ドーム同様に世界遺産になったのではないかという心残りを、今も抱く地元の方々が少なからずいらっしゃるのです。

そうした世界遺産にまつわる翻弄や齟齬については折に触れて話題に上がる一方、浦上天主堂のファサードにあった天使像が被爆して、浦上からパリへと渡り、因縁の世界遺産をつかさどるユネスコで、「長崎の天使」としてひっそりと平和な世界を訴え続けているという、まったく別の物事の流れについては、あまり語られることがありません。浦上天主堂は世界遺産には縁がないというような印象ができてしまっているようですが、実は、この長崎の大聖堂は、世界遺産になろうとなるまいと、平和の象徴となった被爆天使像をとおしてパリから世界に向けて大切なアピールをし続けているのです。

毎年、秋に特別公開

通常、一般の人々はユネスコ本部に立ち入れないため、「被爆天使像」へのアクセスも限られてしまっていることが、その知名度が今一つ高くない理由の一つになっています。日本人も含めてパリを訪れた人たちが気軽に見学できないのは残念なことですが、この記事を読んで興味を持ってくださった方で、9月にパリに行く予定がある方にはうれしいお知らせがあります。

ヨーロッパの多くの国々で、毎年9月第3週の週末に、「ヨーロッパ文化遺産の日」(Journées européennes du patrimoine)という芸術に親しむための特別なイヴェントが開催されます。その発祥の地フランスでは、普段は入ることができない歴史的建造物や政府機関などが一般に無料公開され、ユネスコ本部もこの週末は入場可能になるのです。パリでは、いつもは入れない場所が公開されるだけでなく、さまざまな特別展覧会や各種アートの催しが開かれて、パリの街中が芸術祭のようになりますから、フランス人も楽しみにしています。

2019年の「ヨーロッパ文化遺産の日」は9月21日~22日に開催予定ですが、毎年開催されるので、今年は無理でも来年以降、秋が深まるこの時季に、フランスを訪れる計画を練るのも楽しいかもしれません。パリのガイドブックにはあまり載っていないのですが、ユネスコ本部はエッフェル塔からすぐ近くというとても便利な場所にあるので、観光プランに簡単に取り入れることができます。エリゼ宮(大統領官邸)、首相官邸、国会議事堂、元老院などは、毎年、入場まで5~6時間待ちという大人気のスポットですが、ユネスコ本部は、これまでのところはそれほどの待ち時間を必要とせずに入ることができているようです。

ナガサキが核兵器の悲劇を経験する最後の都市となりますように ―― そんな祈りともにパリから世界を静かに見守る「長崎の天使」との貴重な出会いをかなえたら、そのあとは、静寂に包まれた日本庭園を散策して、心の中に平和のとりでを築く思索の時間を過ごされてはいかがでしょうか。

文・晏生莉衣(Marii Anjo)
教育学博士。20年以上にわたり、海外で研究調査や国際協力活動に従事。途上国支援や国際教育に関するアドバイザリー、平和構築関連の研究等を行っている。

 

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