夕飯を食べないと泣かれる、家族で出かけないとキレられる
28歳で結婚してから、妻の管理下で生活していたという。
「妻は、苦労知らずで育っており、世間からどう見られるか第一に考えている人でした。“普通、こうするでしょ?”というのが口癖で、模範的な家庭を運営することに情熱を燃やしていました」
当然、結婚して専業主婦になり、家庭に入った。結婚する前に花嫁修行の学校にも通っていたという。
「昔は、家庭の主婦になるということは、料理、掃除、洗濯、裁縫、家計管理から、生け花や茶道、マナーなどのほか、結婚生活を円滑に送るためのスキルが求められていました。そういうことを教える学校があったんです。
だから、結婚当初は凝ったものを作ってくれましたよ。チキンソテーを“なんとか風に仕上げたのよ”と出してくれたりね。最初の頃は、私が帰るまでいつまでも待っていて、作ったものを食べないと、怒ったり泣かれたり。作らなくていいと言うと、“私のことはもう要らないのね”と泣かれる。幸い、すぐに息子と娘ができたので、私は解放されましたが、まあまあ管理されていました」
子供が生まれてからは父親の役割を求められたという。
「クタクタに疲れて寝ていたいのに、朝から叩き起こされて、家族で出かけないとキレられる。車も僕は外国車が欲しかったのに、ファミリータイプのものに決められるとかね。妻は常に僕と子供を叱って、口うるさく管理していた。家庭的であるというのは、支配的であるということでもあるんだとわかりました」
給料は全額妻に渡して、月5〜10万円のお小遣いをもらう生活をしていたという。
「キャッシュカードを強引に取り上げられてしまったんです。妻はしっかりしているので、まあいいかと。そのおかげで都内にマンションも買えたし、2人の子供を私立大学に出せたし、上等な人生。妻には感謝しています」
俊一さんは出張が多い。妻は常に浮気を心配していたという。
「必ずどのホテルのどの部屋かを報告させて、23時にホテルの代表を通じて、僕の部屋に電話をかけてくる。電話に出ないと“浮気したでしょ”と言われる。出先の会食で夜遅くなると、ヒヤヒヤしていました」
妻の管理を受け入れたのは、両親が似たような人物だったということもある。
「母はとにかく心配性。高校の卒業旅行はもちろんのこと、大学時代に卒業旅行で皆でインドに行く計画があったのですが、母の反対で僕だけ参加しなかった。“俊ちゃんがインドに行くことを、私が死んでも食い止める”と言われれば、行けないですよ」
妹は「お兄ちゃんは親の言いなり。最悪」と冷めた目で見ており、妻を最初に紹介したとき、「お母さんにそっくりな女と結婚したね」と呆れられたという。
【違和感を抱えたまま、仕事に逃避し続ける30年……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。
