退職金が振り込まれて帰宅したその夜、妻から“離婚したい”と離婚届を出された
光平さんは父として、子供たちには厳しく接した。妻が子供になんでも買い与え、甘やかしていたからだ。
「妻は我慢を知らない人だった。“自分が親にやってもらったように育てたい”と反発されたので、勝手にしろと育児を任せることにしました。だから、息子も娘も礼儀を知らない。僕のことを無視するので、手を上げたこともありました」
すると、妻がすっ飛んできて、「やめてよ」と我が子をかばう。
「そうやって甘やかすから、息子は学校に行かなくなったし、娘の金遣いが荒くなり、どっかの家とトラブルを起こした。そういうときだけ僕が呼ばれる。でも、成長すればなんとなるもので、2人とも専門学校を出て、普通に社会人になっているけれどね」
父として「絶対に大学に行ってほしい」と懇願したが、それも無視された。
「子供の成長とともに家の居心地は悪くなり、妻も子供たちも、僕が家に帰ってくるとそれぞれの部屋に入る。“誰が金を出してやっていると思っているんだ”といつも思っていました」
妻が実家からお小遣いをもらっているのも気に入らなかった。光平さんは高給取りで、住宅ローン、教育費、光熱費ほか、生活費の全般を支払っていた。
「それなのに家族とはほとんど話さない。虚しくなった45歳のとき、出張先で昔の彼女と偶然会ったんです。向こうも結婚生活がうまく行っていないという話をされました。それで、なんとなく僕の部屋に来ることになったんです」
元彼女は、3歳下だった。そしてその日に関係を持つ。夜中に帰るとき、元彼女は「いくらくれるの?」と言ったという。
「さっきまで“好き”って言ってくれてたじゃないか、と思いつつ2万円を渡しました。とりあえず、会社に行けば仕事があり、待っている部下がいる。40代後半から定年までは仕事漬けでした。あっという間。うちの会社は役職定年がなかったので、区切りもなく定年。退職金が振り込まれて帰宅したその夜、妻から“離婚したい”と離婚届を出されました」
夫婦仲は悪いが、離婚するほどのことではないと思っていた。青天の霹靂だったという。
「ママ友の飲み会だ、旅行だと、あれだけ自由にさせてやったのに“自由になりたい”と、“あなたと一緒にいるのは耐えられない”と言う。そのときに“勝手にしろ”と思うと同時に、家と金を取られてたまるかと」
妻は用意周到で、弁護士に相談して財産分与の試算もしていた。ただそれが妻のほうが有利な条件だと見抜き、光平さんも弁護士を立てて争うことに。
「ああいうときに僕は燃えてしまう。1円単位まで分けることになり、マンションは結局売りました。家がなくなると、娘も息子も自立せざるを得ない。妻は実家に戻り、僕は郊外に1DK のマンションを買いました」
定年から雇用延長をしたが、同じ仕事を7割の給料で行う。そして帰るのは誰もいない家だ。「家庭内別居状態だったが、人の気配があるのはいいものだ」と離婚を後悔した。
「一人は本当に堪える。周りを見れば、みんな妻がおり、旅行だなんだと楽しそうにしている。給料が減っても、仕事は変わらない。会社は自分を追い出そうとしているのではないかと感じました。あのときはひたすら虚しかったです」
【仕事を投げ出してもいい自由を得たということ……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。
