祭りの準備、側溝の清掃、草むしりなど人間関係が煩わしい
冬は寒いので、1日中家にこもることも多かった。1週間、誰とも会わない日もあり、孤独が応えた。
「昔なら、誰かを捕まえて長電話もできたんでしょうけれど、その文化がなくなった。春になり、土地の元締めみたいな人がウチに来た。“あなたもここに住んでいるのだから、住民の役割を果たしてください”と注意されたんです。驚いていると“ゴミ集積所の清掃や管理は持ち回りでやっている。あなたは何もしていない”と。何も知らないのだからやりようもないですよね」
武夫さんはそこでムッとした態度をとってしまったことが、相手の気持ちを損ねてしまったらしい。
「とりあえず、月に1回あるという会合に出ることにしました。指定の場所に行くと、住民が30人ほどずらりといる。スケジュール表を渡され、清掃当番の日時、春は夏祭りの準備と側溝の泥かき、夏の草むしりとお祭り、秋は神社の落ち葉清掃と側溝の泥かきなどの日程があり、そこに参加しなくてはならないという同調圧力がすごかったんです」
東京に町内会のようなものはあったが、武夫さんは参加したことがなかった。
「多分、カミさんが忙しい中、対応してくれていたんだな、って。PTAとかもあるじゃない。みんなカミさん任せにしていたことを反省しました。移住を軽く考えていましたよ。代々の人間関係、会合の参加、ゴミ集積所の清掃、夏祭りの前後数日間の日程を空けなくてはならないと思うと、気が重くなりました。実際に側溝の清掃に参加すると、軍手とスコップを渡される。側溝の重い蓋をあけて、落ち葉や泥をかき出すのですが、慣れていないこともあり体力が続かない。30分もしないうちに限界に。町内の人が蔑むように僕を見ているし、ものすごい劣等感でしたよ」
それでも1年住もうとしたが、そもそも妥協した土地で、煩わしい人間関係が発生したら、住む意義を感じなくなるのは自然の流れ。
「地域がよそ者に慣れていないから、セカンドハウスという感じでもないんですよ。東京の家に住む息子に“そっちに帰ろうと思う”と相談したら、“嫌だよ”と言う。息子にしても、住みたくて住んだわけではない。私の移住があったから、住んでもらうことになったんですからね」
武夫さんは息子に平謝りし、息子夫婦の引っ越し費用150万円と、再び行政手続きを代行し、出て行ってもらった。
「僕が家を借りることも考えたのですが、それもおかしな話。あと、移住先探しのときに、“定年後の男一人”が嫌われることもわかっていましたからね。結局、北関東のあの家に住んだのは、たった9か月でした。リフォームにお金をかけて綺麗にしたし、移住ブームもあるので、すぐ売れるかと思ったら、全然売れない。リフォーム代を上乗せしない金額まで値段を下げても、売れない。売却まで1年以上かかりました」
住み慣れた東京の我が家はとても良かった。家のそこかしこに家族の思い出が残っており「一人じゃない。土地に歓迎されている」という雰囲気を味わったという。
「結局、移住の経験をするために、消えたお金は500万円。手痛い出費でしたが、エンディングノートに書いた“自然の中で暮らす”を体験できて良かったということにしています。あとは、カミさんとの関係が良くなったこと。町内会のことや、学校のことなど、“今までありがとう”と伝えたら、“ふふん”という表情をしていました」
以降、妻は別居先から武夫さんの家によく来るようになった。日曜日は共通の趣味である映画や街歩きに一緒に出かけるというルーティンもでき、夫婦関係は改善。老後も共に生きるという実感があり、毎日が楽しいそうだ。
武夫さんの経験からわかったことは、移住には人間関係の構築とその土地の文化の理解が必要であることだ。都市部の厳しい暑さや生活費の高騰から、定年後の地方移住を希望する人が増えているというが、条件だけでは見えない、移住先の温度感を知ることとも、大切なのだ。
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。