取材・文/坂口鈴香
今野文子さん(仮名・60)は先ごろ母を亡くした。認知症で有料老人ホームに入って8年。農業で節くれだっていた母の手がきれいになっていたのが、施設に入れたことに罪悪感を持っていた今野さんにとっては救いとなった。
【前編はこちら】
父が車で行方不明に
母を失った父はどんな様子なのか。母がホームに入って、長く離れて暮らしていたから、悲しみはそう大きくないのかもしれない。そんな予想を、現実は軽く飛び越える。今野さんの表情は暗い。
「実は、父も認知機能が衰えているんです。母の葬儀が終わるまでは気が張っていたのでしょう。四十九日が過ぎると、一気にボケた気がします」
ある日、父が行方不明になった。しかも、車に乗ったまま。
「田んぼに行って、暗くなっても帰って来ません。仕事から帰ってきた弟夫婦が父がいないのに気づいて、しばらく探したのですが、車なのでどこまで行ったか見当もつきません。とうとう警察に届けて探してもらうことにしました。私も実家に戻って連絡を待っていたところ、深夜2時くらいに警察から見つかったという連絡が来ました」
父は実家からそう遠くない場所で発見された。動き方が変な車がいる、というので停めさせて確認すると父だったという。
「幸い、父も車も何ともなかったのですが、警察からは、免許を返納させるように言われました。当然ですよね。それまでも何度か危ないことがあったので、弟が運転をやめるようにきつく言っていたのですが、父はトラクターで田畑に行くのに免許は絶対に必要だと言い張るし、農業まで取り上げると父がますます衰えてしまうのが心配でしたので、しぶしぶ免許は持たせていたのですが……。あと2年で更新なので、そのときに返納するよう説得しようと弟と話しています」
父が気落ちしていない理由とは
警察に保護されて、弟からも怒られた父はさぞや気落ちしているだろうと思いきや、いたって平気なのだという。
「迷子になったことを覚えていないんです。だから全然元気ですよ。農業も現役でがんばっていると自信満々です」
認知症になっても、昔から体で覚えた仕事は忘れないという。農業は父に良い影響を及ぼしているのだろうと想像していたが、認知症はそう単純なものではない。実際には農作業にも支障が出てきているのだという。
「苗や資材など、同じものを大量に注文しているんです。田植えももう一人では難しいだろうと弟が判断して、知り合いの農家に頼んでやってもらったのですが、父はそのこともすっかり忘れて、自分がやったと思い込んでいるようで……」
若いころから農業で鍛えているおかげで、足腰は達者だ。ありがたいことではあるが、これも今野さんの悩みの種となっている。
「母が認知症になったときは、足が弱っていたので、一人で外に出てしまう心配はありませんでした。でも父は頭以外は健康そのものだし、車も運転できる。変な“万能感”があるだけに、昼間一人でいるときに何をしでかすか、不安でたまりません」
母は農業を忘れ、きれいな手で亡くなった。一方、農業が生きがいの父。その父の手がきれいになったとしたら――今野さんはどう感じるのだろうか。
取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。