急性白血病の進行は、恐ろしいほど早かった
結局、ドナーの検査をする時間もなく、次女は入院から1か月ほどで旅立っていった。
「白血病は見舞いに行けない。感染が命取りになりますからね。次女はあれよと言う間に亡くなりました。妻には事実を伝えていたのですが、“治るんでしょ?”と言っていた。それに対して、否定も肯定もできませんでした。病院から次女の訃報が入り、へたり込みそのまま寝込んでしまった。葬式はなんとか出たものの、2週間以上もほぼ眠り続け、起きるたびに“あの子がいない世の中なんて生きている価値がない”と泣く。長女も心配し、顔を見せに来てくれたのですが、妻は次女をより愛していたので、長女に対してぞんざいな態度をとる。やがて長女は顔を見せなくなりました。そういうところも配慮があるというか、強く優しい子に育ったと思っています」
妻はその3年後、持病が悪化し、73歳の若さでこの世を去る。義親さんは看病に疲れ果てていた。死後の事務手続きは、長女夫婦が行ったという。
「娘と妻を失い、1年ほど悲しみに暮れていた私に対して、長女が“一緒に家を片付けよう”と提案してくれました。2人の遺品は膨大な量があり、それをひとつひとつ手にとって、処分をしようと言ってくれたのです」
気持ちの区切りをつけるのに、長女は1年待ったのだ。そして「一度手にとってから捨てる」という提案もしてくれた。ものというのは不思議なことに、手に取れば、持ち主の思念が不思議と伝わってくる。楽しい日々を思い出し、妻も次女も幸せに生きたのだと、気持ちの区切りがつけられたという。
「長女はそういうことも考えてくれたんです。孫の中学受験もあって忙しいのに、週末になるとウチに来て一緒に片付けをしてくれた。でもやっぱりつらい。本当につらいかった。特に、妻が愛用していた物を手に取ると、嗚咽してしまう。そんな私の背中を、長女と婿さんがさすってくれた」
3年かけて片付けを行い、一人暮らしには広い一戸建てを売却。そして、長女の家の近くの高齢者住宅に入居した。妻と次女との「捨てられない思い出の品」はトランクルームに預けてある。大量のアルバムや彼女たちの愛用品などだ。
義親さんは、思い出から切り離されたことで、生きていかなければと思うようになったという。長女は義親さんに程よい距離感で寄り添っている。そのことが親孝行だと感謝しているという。
「私は大学時代に一人暮らしをしていたので、家事はお手のものなんですが、一人だと味噌汁と炒め物程度になってしまう。長女は時々、妻がよく作ってくれた料理……なんてことない春雨のサラダとか、ポテトサラダとかを持ってきてくれるんです。長女はよく妻のことを手伝っていましたし、親子だから味覚が似ているんでしょうね。妻の味の面影が残る食べ物を口にすると、やはり泣いてしまう」
次女と妻を立て続けに失った心の傷は深く、まだ血は流れている。そんな父につかず離れず寄り添う長女に、親として深く感謝をしているという。そんな両親の姿を見て育つ孫たちは、人の心を支える強さと優しさを持つようになるだろう。義親さんの話を聞いていると、親子のつながり、家族のつながりは人間にとって大切なのではないかと感じてしまった。
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。