取材・文/ふじのあやこ
昭和、平成、令和と時代が移り変わるのと同様に、家族のかたちも大家族から核家族へと変化してきている。本連載では、親との家族関係を経て、自分が家族を持つようになって感じたこと、親について、そして子供について思うことを語ってもらい、今の家族のかたちに迫る。
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児童相談所による児童虐待相談対応件数は年々増加を続けており、平成4年度の速報値では、219170件(前年比+5.5%・11510件増)となっている。しかし、相談に至った数だけではなく、誰にも相談できずに虐待に耐え忍んで大人になった人たちがいる。この人たちは「虐待サバイバー」と言われ、大人になった今も心身ともにさまざまな後遺症に悩んでいることも多い。
今回お話を伺った千尋さん(仮名・42歳)は小さい頃に母子家庭で育ち、ネグレクトや心理的虐待を受けていた。
【~その1~はコチラ】
賃貸の連帯保証人を母親は拒否してきた
千尋さんは高校のときにアルバイトをしていた飲食店にそのまま高校卒業後就職した。就職先は高校在学中に見つけることができたが、一番苦労したのは賃貸の連帯保証人。母親からは保証人になることを拒否されたという。
「『出て行くんだからすべてのことを自分でやりなさい』と、母親は私と完全に縁を切るつもりのようでした。でも他に頼む人がいなかった私は頭を下げてお願いしたんです。そしたら、父親の連絡先を教えてくれました……。
父親に連絡したら、とても驚いた様子だったのですが、連帯保証人になってくれて、お金もくれました。私たちに特に他の会話はなかったんですけど、どこかで私はこれから父親と会っていけるのかなって、頼っていいのかなって思っていたんです。でも、父親は去り際に『元気で』と言いました。一瞬でもこの人のことを父親だと受け入れようとした自分自身が恥ずかしかったです」
飲食店で働きながら一人暮らしをしていた千尋さんは仕事場で出会った6歳上の男性と26歳のときに結婚。そこからずっと2人で暮らしている。
「結婚するってなったときに子どもを作らないことを話し合って決めました。私が、子どもは欲しくないと言って、夫に認めてもらったんです。子どもが欲しくない理由は、自分を母親と同じような存在にしたくなかったからです。虐待された子が親になると子どもを虐待するってよく言われているけれど、そんなものなってからじゃないとわからないし、架空の子どもをいじめている自分の姿なんて想像できません。でも、自分がお母さんになるだけならイメージできます。そのイメージには、どうしても自分の母親の姿がチラつきました。完全に母親を忘れたいから、思い出すような要素は排除したかったんです」
【困窮した母親を見捨てられないのは「育ててくれたから」。次ページに続きます】