祖父が死去すると、弁当事業は傾いた
祖父は亡くなる前日まで仕事をしていた。孫の美佐子さんにも時に手を上げる、厳しく、専制君主のような祖父は、死の前日まで厨房に立ち続け、帳面は人に見せなかったという。
「あれは、1989年だったかな。いつも4時に起きてくる祖父が6時になっても寝ているからおかしいと、父が見に行ったら冷たくなっていたそうです。享年76歳でした。昭和の終わりとともに、逝ってしまったのでよく覚えています」
祖父は終活を一切していなかった。仕入れ先の支払い状態も、財産もなにもかもわからない。祖母は祖父が亡くなる前年に亡くなっており、美佐子さんの母は祖父の横暴に耐えかねて、10年以上前に離婚していた。残されたのは、ボンクラと揶揄される美佐子さんの父と当時26歳の美佐子さんだけ。祖父は「俺の店は美佐子に継がせる」と言っていたので後継者になった。
「その前に、相続が地獄のように大変だったんです。父のきょうだい3人と骨肉の争いをして、今は絶縁。そして祖父が買いあさった不動産に莫大な相続税がかかり、今思うとホントに安い値段で売却を余儀なくされました。だまされることも多く、一気にウチが傾いたのはあの頃でした」
美佐子さんは、当時店の一番手の料理人だった現在の夫と交際していた。結婚の予定を早めたものの、若いから下に見られることも多かった。弁当事業も値引き交渉されることが続き、気が短い夫は交渉を決裂させることも多かった。
「その前に、1990年ごろから、多くの会社が福利厚生費をケチり始めたんです。それで弁当事業を終わらせることにしました。大量のガス炊飯器と弁当箱は、福祉施設に引き取ってもらいました」
それでも定食店は繁盛し、朝9時から夜11時までぶっ続けで営業していた。しかし1995年の阪神淡路大震災あたりから、目に見えて客足が落ち始めた。
「あれがひとつの転機だったんでしょうね。あの年を境に、店の業績がゆるやかに落ちていったんです。大きかったのはウチのメインのお客さんが入っていたビルが、再開発のエリアにかかって、移転してしまったこと。なじみのお客さんがいなくなり、仕入れたお米100キロの前で途方に暮れたこともありました」
この頃までは、店が赤字になっても祖父が残した財産で賄うことができたという。
「ほんとに水物なんですよ。私には一人息子がいるのですが、こんな商売はさせられないと、大学に出しました。会社で働く人になってほしかったんです。毎日会社に行っていれば、きちんと給料がもらえて、人並みな生活ができるじゃないですか。私たちの商売は“待つ”のが仕事。かつてはチラシをまいたり、出前のメニューをご近所様に入れたりしたものですけれど、その効果は時代とともに目に見えて下がっていく。もうどうしょもないところに来てしまったんです」
美佐子さんの店の近くにある中華料理屋は、街中華ブームで盛況だという。
「お客さんが来ても、夫婦2人だから回せない。それに、特別ウリになるメニューもないですし……このまま終わっていくしかないのかもしれないのに、息子が店を継ぎたいと言ってきたんです」
【息子は会社員に向いていなかった……後編へと続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などに寄稿している。