文/印南敦史

以前、『女将は見た 温泉旅館の表と裏』(山崎まゆみ 著、文春文庫)というエッセイをご紹介したことがあった(https://serai.jp/living/1015859)。著者は、32か国、1000か所以上の温泉を訪ねてきたという人物である。

軽妙な文体も魅力的だったため記憶に残っているのだが、しかし、あれからもう2年半もの歳月が過ぎてしまったのか。

時の流れの速さには驚くしかないが、ともあれそんなタイミングでお目見えしたのが『温泉ごはん: 旅はおいしい!』(山崎まゆみ 著、河出文庫)。『味の手帳』での連載「おいしい温泉(元の『温泉』は温泉マーク)ひとり旅」に掲載された原稿のなかから52本をセレクトして一部を改稿、収録したものだ。

ちなみに5年分の原稿を読み返してみた結果、もっとも多く出てきたことばが「完食!」だったのだという。完食してきたのは、おもに温泉旅館の名物料理やその土地の“ハレの膳”とソウルフードだそうだ。

ソウルフードは、温泉地で暮らす人が通う共同浴場で情報を集めた。佐賀県武雄温泉の餃子会館で真ん丸な餃子を頬張ったことは記憶に鮮明だし、別府のとある民家の「地獄釜」で炊いたほろほろになった肉の感触は舌が覚えている。極寒の奥飛騨で極太のつららを眺めながら、熱々の漬け物ステーキを噛みしめ、日本酒を流し込んだ時は、食べることで暖を取る切実さを思い知った。
土地の人が日頃、食べているものを身体に入れてこそ、人の営みが垣間見える。(本書「まえがき」より)

つまり食に関するトピックスだけではなく、それらにまつわる連載5年間分の出来事がここにはまとめられているわけだ。

バリアフリー温泉、ユニバーサルツーリズムの記述が多いのは、2012年に身体が不自由だった妹を見送り、その妹を温泉に連れて行けなかった後悔がきっかけで高齢者や身体の不自由な人が温泉で寛げるような環境作りに力を注いできたから。(本書「まえがき」より)

著者は「高齢者や身体の不自由な人にこそ温泉」を提唱し、バリアフリー温泉を積極的に紹介していることでも知られるが、個人的な事情に端を発した活動の軌跡が、本書にもくっきりと表れているのである。事実、お父様を中心とした家族の話題も登場する。

とはいっても肩肘張ったものではなく、それどころか読んでいるだけで、肩の力がほどよく抜けていくような心地よさが全編に貫かれている。なんだか温泉の効能にも似ているように思えるが、単に「気持ちがいい」ことを記述するだけではなく、意識的にそこから一歩踏み込んでいるのだ。

「入れば気持ちがいい。癒される」というだけでなく、おいしい温泉、まずい温泉といったお湯を味わう楽しさや、先人たちの温泉活用術などの逸話も記し、はては海外の温泉まで話を広げてみた。(本書「まえがき」より)

近年はサウナに関する「整う」という表現が浸透しているが(個人的には非常に苦手)、そうした流行語がなぞる表層的な心地よさだけではなく、さらに奥深いところまで突き詰めようと試みているということ。

決して難しい内容ではないのに、随所で強い説得力を感じさせてくれたりするのは、そのせいなのかもしれない。

だが同時に、食べ物についての記述もお見事である。秋田県・湯沢温泉で食べたという「稲庭うどん」についての記述を引用してみよう。

「つるっ」と、喉を通り抜ける。
すべりやすくするために麺をコーティングしているのだろうかと思えるほど、稲庭うどんは喉ごしがいい。特に暑い夏の日は、麺が涼を運んでくれる。(本書30ページより)

簡潔でありながらみずみずしさにあふれ、読んでいるだけでつややかなうどんの光沢が頭に浮かんでくるようである。夏がすぐそこまで訪れているいまの時期は、ことさら感じるものがある。

しかも、そこに旅情がいい感じで絡みついてくるのだ。

稲庭町には20軒ほどのうどん店がある。江戸時代よりうどんを作り始めた老舗の「佐藤養助 総本店」で稲庭うどんを注文した。
「二味せいろ」を注文するとゴマダレと醤油ダレの2種類と、つやつやと光るうどんが出てきた。空腹もあって、箸でわしっとつかもうとしたが、麺がすべってつかめない。3〜4本ずつの細い束にして、タレに入れて一口。つるつると口に入る。噛みしめるとしっかりとしたこしがあるが、ごくんと飲み込むと、するっと涼が通り抜けた。(本書32〜33ページより)

困ってしまうのは、いやでも食欲を刺激されてしまうことである。事実、この文章を読んでから無性に稲庭うどんが食べたくなってしまった。でも、すぐに秋田県まで遠征するわけにもいかないから、少しでもよさそうな乾麺を求め、スーパーを何軒かはしごしたりもした。

だが、そうやって探してきたうどんをツルツルやっていると、やはり旅に出たくなってしまうのである。いやはや困ったものだ。

『温泉ごはん: 旅はおいしい!』
山崎まゆみ 著
河出文庫

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文/印南敦史 作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)『書評の仕事』 (ワニブックスPLUS新書)などがある。新刊は『「書くのが苦手」な人のための文章術』( ‎PHP研究所)。2020年6月、「日本一ネット」から「書評執筆数日本一」と認定される。

 

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