声をかけることはできたはずなのに、できなかった
「ちょっと緊張したような真剣な面持ちだったので、もしかして、誰かと待ち合わせでもしているのかとも思いました。まさか、男か? それはないだろう……とか思いながら、ちょっとドキドキしましたね」
有美子さんは食器を返却し、その足でホームに向かうと、再び本に目を落として電車を待っていた。電車が到着すると、スーツ姿の男性の波に飲み込まれるように車内に流されていった。大西さんはその様子を少し離れた所から見届け、会社に戻ったという。
「自分でも不思議なんですけど、あの場で声をかけることはできたはずなのに、できなかった。電車の中で浮かんだのは、茶色い表紙の本、空っぽのシャンパングラス、ため息をつく横顔、サラリーマンの中に消える瞬間。それが何度も頭の中を巡っていました。見てはいけない場面を見たような……やっぱり変ですよね?」
その日、仕事を終えて22時頃に帰宅すると、有美子さんはいつもと同じように自分のために晩酌のセットをし、いつもと同じように風呂上がりの髪を乾かしていたそうだ。大西さんはとうとうその晩、数時間前に見た光景について切り出すタイミングを逸してしまった。
「そもそも有美子が家で飲んでいる姿を見たことがありません。アルコールは好きじゃないはずです。たまに旅行先で軽く1杯僕に付き合うくらい。なのにどうして会社帰りに、駅ナカなんかでシャンパンを飲んでいたんでしょう。よほど嫌なことがあったのかもしれませんよね。もしかしたら、僕に隠れて毎日外で飲んで帰ってきているのかもしれません。どっちにしても、家のことはちゃんとしてくれているんだから、あまり詮索しないほうがいいんじゃないかと思って……」
会社帰りにひとりでお酒を飲むことは、悪いことではない。女性だからといって特別なことでもない。それもたった1杯だ。しかしながら、長年連れ添ってきた妻の意外な一面を見て、大西さんが戸惑っているのは明らかだ。「今日、見かけたよ」「駅ナカで何してたの?」と聞きたくても聞けず、大西さんは何か月もモヤモヤして過ごしていた。
【夫婦は互いのことをすべて知っているわけではない。 ~その2~に続きます。】
取材・文/大津恭子
出版社勤務を経て、フリーエディター&ライターに。健康・医療に関する記事をメインに、ライフスタイルに関する企画の編集・執筆を多く手がける。著書『オランダ式簡素で豊かな生活の極意』ほか。