取材・文/坂口鈴香
篠文代さん(仮名・54)は、介護15年のベテラン介護職員だ。同居していた篠さんの実父(90)が脳梗塞で2度倒れ、担当医からは「もう自宅介護は無理」と言われた。さらにリハビリ病院から、胃ろうをつくってはどうかと提案された。胃ろうの人の介護も経験していた篠さんは、胃ろうには反対だったので悩んだ。しかしそのときの父親は生きようとしていると思えたため胃ろうを選択し、その後父親が入所した特養で、篠さんも働くことにした。
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胃ろうをしないという選択肢はなかった
コロナ禍で家族が親に会えないなか、職員である篠さんは父親の顔を見ることができている。そんな幸運に感謝する一方で、篠さんはずっと苦しい思いを持ち続けている。胃ろうという選択をしたことに対してだ。
特養に入所する2か月前に胃ろうをつくっていた父親は、すでにほとんど寝たきりの状態になっている。
「胃ろうをつくれば、イヤでも栄養は入ってくるので、健康は保てます。大きな病気もほとんどしていません。でもリハビリは難しくなって、結局起き上がることもできなくなりました」
そのうえ、父親とは意思の疎通も取れなくなってきているという。
「最初のころは、文字盤を指して会話できていたのですが、それもできなくなってきました。それで、『あ行?』『か行?』と確認しつつ、言いたいことを聞き取るようにしていたんです。『テレビのチャンネルをかえて』くらいの短い会話でも1時間くらいかかるようになって、聞き取るだけでもへとへとになります。特養ですし、コロナもあって、今はリハビリといっても簡単に体を動かすくらいしかできず、あとは訪問マッサージをしてもらう程度。脳に刺激を与えようと、テレビやラジオを聞かせようとしても、鬱陶しいと思っているようです。前はDVDを見せれば見ていたんですが……」
そんな父親を見ていると、胃ろうをして無理に生きてもらっているのではないか――という思いがぬぐえない。
「胃ろうにしたことを後悔しているわけではありません。あのとき、父は生きようとしていたし、あのときに胃ろうをしないという選択肢はありませんでした」
毎日天井を見て何を思っているのか
篠さんは、以前胃ろうをしている入所者の家族にこんなことを言っていたのを思い出す。
「胃ろうにして『主人に悪いことをしたんじゃないか』と嘆いている奥さんに、介護士として『どちらの選択をしても後悔しないことはないと思います。より良い選択をしたと思ってがんばるしかないですよ』と言葉をかけていたんです」
それも、今思うと他人事だったんじゃないかと思う。自分にふりかかるとは思っていなかった。
「あのとき胃ろうをしなくても、きっと苦しんでいると思うし、今は胃ろうをしたことで苦しんでいる。そのときの一番良い選択をしたんだと自分に言い聞かせるしかありません。そう考えようと思いつつ、父が言葉を発せない今、どんな思いでいるのか、毎日天井を見て何を思っているのかと思うと、涙が止まらなくなってしまうんです」
先日、父親は90歳の誕生日を迎えた。甥や姪からの「おめでとう」動画を見せると、父親は一生懸命に見ていたという。
「父はわかっているんです。だから『コロナがおさまれば外に出せる。家にも一時帰宅できる』と、何度も自分に言い聞かせています」
【次回に続きます】
取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。