文/川村隆枝
ある日のこと、いつものように師長の案内で回診していました。
「尿量が少ないですね。どう思いますか?」
師長が八九歳の鈴木さんの採尿バッグを私に見せました。
「えっ、紫?」
入所者の容体については、いつもは落ち着いて反応する私が、思わず素っ頓狂な声を出してしまいました。
そんな尿は見たことがなかったからです。
彼女には、尿を排泄させるためのカテーテルという柔らかい管が挿入されているので、採尿バッグに尿が溜まります。
そのカテーテルもバッグも、見事に綺麗な紫色でした。
「どこか悪いのかしら?」
私の問いに、師長は平然とした顔で答えを返してきました。
「よくあることです、長期でカテーテルが入っている人は。原因は分かりませんが、紫の尿は鈴木さんだけの話ではないですね」
調べてみると、立派な病名がついていました。紫色採尿バッグ症候群。
尿に含まれるインジカンという物質に細菌が入って色素を持ち、カテーテルやバッグを染め上げるというものです。
長く導尿カテーテルを挿入されていたり、慢性便秘や尿路細菌感染が重なったりしたときに多いといわれます。
ただ、尿が紫色に染まっているのではなく、尿に含まれる色素がカテーテルや採尿バッグを紫色にしているというだけです。
当然、治療の対象にはならないので、その背景にある便秘や細菌感染の予防と治療が重要になります。
私の知らなかった病気を学ぶきっかけを与えてくれた鈴木さん。
彼女は大腿骨骨折で手術を受けた後に廃用症候群になり、現在の要介護度は五です。
廃用症候群は、介護の必要な高齢者や脳卒中などで寝たきりになった人に多い症状です。身体を動かす時間が減ることで筋力や様々な臓器の機能が低下し、身体や精神に不都合な変化を起こします。
しかも廃用症候群の進行は速く、特に高齢者はそのスピードが著しいといわれます。
一週間寝たきりの状態が続くと、10~15%程の筋力低下が見られることもあります。
さらに気分的な落ち込みが現れてうつ状態になったり、やる気が減退したりするなど精神的な機能も低下していきます。
鈴木さんのことで、あるスタッフからこんな話を聞きました。
「もう年なんだから死んでもいい。いつもそう言っています」
本当に死んでもいいと思っているのだろうか?
先日観ていたあるドラマで、こういうシーンがありました。
お金持ちですが、心を病み、他人に意地悪しかできない義肢の娘に、ロボットが義肢のことを尋ねます。
「それは、どうしたんだ?」
「幼い頃、火事に遭ったの。義父母は遺産欲しさに私を助けないで逃げ出してしまった。人間は信じられない」
憎々しげに吐き捨てる娘に、ロボットは優しく語りかけます。
「本当は寂しいんだね」
「どうしてそんなことが分かるの?」
「ある波長で君の心の中を見透かしているんだ」
娘の意地悪な行為はその反動で起こるもの、本当は優しさを求めてやまない寂しい娘だったということです。
鈴木さんの「もう年なんだから死んでもいい」の裏に、「淋しい」「もっと生きたい」という訴えがあるのではないかと私は感じてしまいます。
でも、本当の心の声を聞くのは難しいものです。
「お疲れさまです。これからは私たちと一緒にゆっくり人生を楽しんでください」と心から伝えたいのですが。
川村隆枝/1949年、島根県出雲市生まれ。東京女子医科大学卒。同医大産婦人科医局入局。1974年に夫の郷里の岩手医科大学麻酔学教室入局、同医大付属循環器医療センター麻酔科助教授。2005年(独法)国立病院機構仙台医療センター麻酔科部長。2019年5月より、岩手県滝沢市にある「老人介護保険施設 老健たきざわ」施設長に就任。