文/川村隆枝
その部屋には、人間のうんちが落ちていました。
「それは犬のうんちだ」
認知症の飯塚さんは平然とそう言いました。
「そんなことないでしょ。バカなことを言わないで!」
そう言って否定すると飯塚さんは怒り出します。飯塚さんは、犬のうんちと思っているのだから、怒るのは当然です。
こんなときは、介護者が「そうですね」と穏やかに言ってあげると、飯塚さんが怒り出すこともなく、平穏無事にその場は収束します。
介護の現場では、普通の価値観は捨てましょう。
そのほうが認知症の行動を受け入れられるので、認知症の人は穏やかに暮らせます。
これは、施設長になって覚えたことでもあります。
認知症は、アルツハイマー型、脳血管型、レビー小体型の三種類。
約60%がアルツハイマー型で女性に多く、約20%は脳梗塞や脳出血の後遺症として発症する脳血管型で男性に多いといわれます。
脳血管型や重度の認知症を発症すると、多くの人は介助が必要になり、介護施設に入所します。一方で、アルツハイマー型やレビー小体型の人たちはその度合いによって自宅でも日常生活を送ることができます。
人間は認知機能が低下しても残存機能で行動し、たとえ失敗しても失敗を正当化して幸せに生活できるからです。
ただ、そこで不可欠になるのが、家族はもとよりまわりにいる人たちの理解です。
2025年には、4人に1人が65歳以上の高齢者、5人に1人が認知症を発症しているといわれています。
しかも、国際アルツハイマー病協会(ADI)によると、認知症の人は世界中で既に5000万人以上、2050年までには一億5200万人に上る見込みだといわれています。
現代は認知症と共に生きる時代。そのためにも、すべての人が認知症に理解を深める必要があると私は考えています。
そこで、まずは大きな勘違いを一つ紹介します。
認知症は、脳の神経細胞が壊れて起きる症状や状態をいい、老化による「もの忘れ」とは異なります。
「もの忘れがひどくなった」と焦っている人がいますが、もの忘れは、脳の生理学的な老化です。あまり進行することはなく、何よりも忘れっぽいことを本人が自覚しています。
一方、認知症は症状が悪化していくと判断力が低下するので、忘れたことを本人が自覚しなくなります。飯塚さんのような症状がそうです。そのため、日常生活にも支障をきたすようになるのです。
認知症のことでもう少し話しておきましょう。
アルツハイマー型で認知機能の低下が進んでいくと、小児の発達を逆行するといわれます。
赤ん坊は様々な認知機能を徐々に獲得していきますが、アルツハイマー型の人は育んできた認知機能を一つずつ失っていきます。そして最後には、赤ん坊の状態に近づきながら死を迎えます。
では、赤ん坊の状態は不幸せなのか。
赤ん坊は、愛情をこめて接していれば幸せだと感じているはずです。認知症の方も同じです。愛情のこもったケアを受け、周囲が自分を受け入れてくれる環境ならば、そこには幸せがきっとあるはずです。
先日、友人の一人がこう問いかけてきました。
「これって認知症の始まりかしら?」
「これって、どれ?」
「仕事中のもの忘れ。すごくショックだったのよ。手はいつものように動いたから事なきを得たけど……」
もう一度、書いておきます。もの忘れと認知症は、全く違います。認知症は自分が何かを忘れたことさえ覚えていないからです。
「私だってそんなことはよくあるわよ。同年代の人にもよくあること。単なる老化ね」
「老化、なのね」
「でも、それは自然なこと。あなたも私も年を取ったの。そんなことで思い悩むよりも笑って陽気に生きたほうが免疫力も上がって、老化防止につながるわよ」
「そうね。同じ時間ならそのほうが楽しいわね」
それが一番いい選択。
『笑う門には福来る』ですから。
川村隆枝/1949年、島根県出雲市生まれ。東京女子医科大学卒。同医大産婦人科医局入局。1974年に夫の郷里の岩手医科大学麻酔学教室入局、同医大付属循環器医療センター麻酔科助教授。2005年(独法)国立病院機構仙台医療センター麻酔科部長。2019年5月より、岩手県滝沢市にある「老人介護保険施設 老健たきざわ」施設長に就任。