文/川村隆枝
それは、夫を介護施設に入所させ、私は麻酔科医として秋田に出張していた寒い冬の夜でした。
突然、介護施設から電話がかかってきました。
「誤嚥性肺炎かもしれません」
誤嚥性肺炎は、嚥下(えんげ)機能(食べ物を飲み込む機能)障害で、唾液や食べ物、あるいは胃液などと一緒に細菌を気道に吸い込んだことで発症します。
嚥下機能の低下した高齢者、脳梗塞後遺症やパーキンソン病などの神経疾患や寝たきりの人がかかりやすいといわれます。
理由は、口の中の清潔が十分に保たれていないことで、細菌が繁殖するからです。
その細菌を間違って気管から吸い込んでしまって、肺炎を引き起こしているのです。
私はその危険性を知っていたので、すぐに夫が搬送された病院に向かいました。外に飛び出すと、しんしんと雪が降っていたのを覚えています。
移動する途中、居ても立ってもいられなかった私は、主治医に電話で夫の容体を確認しました。
「マスクで酸素を投与していますが、危険な状態です。もしものときには挿管(口から気管に呼吸用の管を通すこと)して人工呼吸器をつけ、胃ろうを作ってもいいですか?」
「そんなに危ない状態なんですか? 私が行くまで挿管は待ってください」
私が病室に駆けつけたときには、酸素マスクを付けた夫が、苦しそうに息をしていました。
「圭一さん! このままだと人工呼吸と胃ろうの生活になるんだって。美味しいものが食べられなくなるのよ。それは嫌だよね。だから、力の限り頑張って!」
私は、周囲を気にしないでそう叫んでいました。
夫は私の声が聞こえたのか、大きく頷いていました。
誤嚥性肺炎が高齢者に起こりやすい理由のひとつは、飲み込む力の低下です。
飲み込む力が正常であれば、口から入った食べ物は、唾液と混ざり合い食道を通って胃に運ばれます。しかし、飲み込む力が低下すると、正しく食道に送ることができません。
正常な人には、「飲み込む」というのは何気ない行為ですが、実は非常に繊細で緻密な身体の動きによって行われているのです。
もうひとつは、唾液の分泌量の低下。
口の中には細菌やウイルスが侵入しやすいので、唾液には強力な抗菌・殺菌作用だけではなく免疫力の増強につながる物質も含まれています。
また、唾液は、食べ物を塊にして胃にスムーズに送り届けたり、舌の動きを滑らかにして会話をしやすくしたり、口の中の潤いを保つことで口臭を防いだりもします。
それだけに口の中には、豊富な唾液が必要になります。
高齢になると、この唾液を分泌する能力が低下してしまいます。
夫は、誤嚥性肺炎の苦しみに耐えながら、三日三晩生死の淵をさまよって少しずつ快方に向かっていきました。このとき、私は彼の生きようとする力に驚いたものです。
しかも一カ月後には、酸素マスクなしでも問題ないほど呼吸は回復していました。
ただ、脱水症状が続いたために持病の糖尿性腎症が悪化して血液透析を開始することになります。
今振り返っても悔しいですが、それが夫の命を縮める結果になってしまいました。
川村隆枝/1949年、島根県出雲市生まれ。東京女子医科大学卒。同医大産婦人科医局入局。1974年に夫の郷里の岩手医科大学麻酔学教室入局、同医大付属循環器医療センター麻酔科助教授。2005年(独法)国立病院機構仙台医療センター麻酔科部長。2019年5月より、岩手県滝沢市にある「老人介護保険施設 老健たきざわ」施設長に就任。